アイドルと性をめぐる3つの論点とは? 香月孝史がタブーに切り込む

 前回の記事【アイドルの「恋愛禁止」は守り続けるべきものなのか?】で、女性アイドルシーンが抱える「恋愛禁止」という風潮が守られ続けることへの疑念を示した。懸念したのは、あくまで「風潮」だったものが次第にルールとして当たり前に内面化されていくことで、社会一般の倫理観とのズレが進行してしまうことだった。実際、その社会とのズレの臨界点を超えたものとして、前回触れた峯岸みなみの「事件」などはあったように思う。当時、その「事件」直後の反応として印象的だったのは、AKB48ないしは女性アイドルというジャンルを、きわめて反社会的な性格の組織や分野として語る言説だった。あらためて振り返ればそれらの言説の中には、「事件」の衝撃的なビジュアルから導き出されたごく表面的な連想による語り口のものもあった。また、前回書いたように「恋愛禁止」の内実も、単に明確なルールであるという前提で語れるほど単純なものではない。当時噴出した批判の中には、アイドルというジャンルの性質を過度に単純化したうえでの糾弾もあったのかもしれない。しかしそれでも、「世間」との温度差を認識する機会は、アイドルというジャンルのもつあやうさを省みるタイミングになる。ズレに気づかなくなること、反社会的なものとして認知されることは、ジャンルが順調に継続していくうえでもリスクになる。

 そもそもアイドルというジャンルはいろいろな局面で、世間との温度差をはらむものではある。もっとも象徴的なもののひとつには、「AKB商法」という言葉で定着した音楽ソフトの複数購入を促す販売方法があるだろう。この論点に関しては、すでに俯瞰的な分析や相対化も行われているし、ヒットチャートというもの自体が複眼的な指標をもつものとして整備されつつある。ただし、ひとくちに世間との温度差といっても、「恋愛禁止」の場合やや性質が異なる。というのも、その規制がジャンルの実践者自身であるアイドル当人への「抑圧」として受け止められるからだ。さらにいえば、その抑圧が齟齬をきたした結果がすでにいくたびも生じているのが現在でもある。

 アイドルに関して何らかの「抑圧」が働いているというイメージはしばしば議論の的になるが、その「抑圧」はまたいくつかの水準に分けられる。アイドルに関連して「抑圧」という言葉が指し示すうち、もっとも意味の大きいものに、アイドルに対する「性的な視線」のありようにまつわるものがある。「恋愛禁止」という習慣を是とする声の中には、その理由にアイドルというジャンルが「疑似恋愛」を中心とした「性的」な魅力を論拠にするものが多い。とはいえ、そもそもアイドルというジャンルに限らず、芸能において「性的魅力」と「そうでないもの」とは混在することが常だし、その両者を明確に分けることはほとんど不可能だ。その人物の上演する内容が意図的にセックスアピールを表現するものもあれば、意図しない性的魅力が看取されることもある。また、いわゆる疑似恋愛的な視線が向けられるのだとして、それもアイドルというジャンルに限ったことではない。「恋愛禁止」が謳われていようがいまいが、芸能人に性的な魅力が見て取られることも、疑似恋愛的な感情が抱かれることもいくらでもある。芸能としてセックスアピールを行なうこともそこに性的魅力を見出すことも、それ自体は否定されるべきものではない。ある芸能者が見せる上演内容がセックスアピール「だけ」で成り立つことなどありえないし、また主体的なセックスアピール自体を否定することもまた抑圧ではあるだろう。

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