香月孝史『アイドル論考・整理整頓』

アイドルの「恋愛禁止」は守り続けるべきものなのか?  香月孝史が歴史的経緯を踏まえて提言

 AKB48や今日のグループアイドルシーン活況のはるか以前から存在している「風潮」だからこそ、それが誰によって維持されているのかははっきりと指摘しにくい。ただし、その「風潮」が引き続いてしまった結果、それは送り手にも受け手にもいつしか前提条件として内面化されていく。もはやあらためて宣言するまでもなく、各アイドルグループの運営やメンバーは、「恋愛禁止」をこのジャンルの普遍的な前提とした言動を行なっているし、テレビバラエティなどでもその前提で企画やトークが進行する。この「恋愛禁止」の理由については時に、夢を与える立場であるから、あるいは何かを代償にしてこの舞台に立っているから、といったたぐいの説明がなされることがある。しかしそれらは、この「80年代半ばからのレギュレーション」を、エンターテインメントとしての形も大きく違うはずの今日のグループアイドルシーンに引き続き温存させるロジックとしてはいささか弱く、またナイーブでもある。古典的な「風潮」を維持するロジックに寄り添う前に、そもそもその前提を疑ってよいのではないかというのがこの記事の問いかけでもある。

 というのは、この「風潮」は世間的な通念ないしは倫理観とは大きな齟齬を生むものだからだ。先の峯岸にまつわる騒動は、なによりその価値観の齟齬に対しての社会からの強い拒否反応としてあった。アイドル当人が自らへの衝撃的な「罰」をもって償わなければならないとごく自然に思い込んでしまうほどに「風潮」が内面化された結果、それは社会が受けつけがたい理不尽さや気味の悪さを生み出していた。AKB48以降のグループアイドルの広まりは、もちろん一方でアイドルというジャンルをごく一部のマニアックな輪の外に開かれたものにしてきた。このジャンルがそうした開かれた文化として根付き、継承されていくことを望むならば、「風潮」を固守し続けることの意義は、リスクの大きさに比してそれほど明快ではない。

 2010年代のグループアイドルシーンについてこの何年かの間に繰り返し論じられてきたのは、このジャンルがアイドル当人たちのパーソナリティと人間関係のダイナミズムに、エンターテインメントとしての魅力の多くを負っているということだ。それらは、いわゆる擬似恋愛のみにアイドルというジャンルが還元されてしまいがちな「風潮」に対して、このジャンルの面白さや奥行きの深さを信じる者たちからの異議申立てでもあったはずだ。さらにいえば、「何かを代償に」して「夢を与える」ことが、いつまでも「恋愛禁止」によってしか成し得ないとされるならば、それはアイドルというジャンルの可能性を低く見積もってしまうものなのではないか。もとより、「恋愛禁止」など課されていない他のエンターテインメントが、だからといって何かを代償にしていないとか夢を与えていないとかということにはならないのだから。ジャンルに限らず、タレントや有名人に対してファンが恋愛感情のようなものを抱くとしても、そのことと「恋愛」を禁じることとは次元が異なる話である。

 AKB48は秋元の言葉とは裏腹に、「恋愛禁止」をほとんど事実上のルールのようにしてみせている。このように「風潮」だったものをわざわざ可視化したことは、いかにも野暮ったい話にも見える。しかしまた、先の峯岸や同じくかつて「スキャンダル」が報じられた指原莉乃らは、その後の自らの立ち回りのクレバーさで支持を獲得して今日に至っている。結果的にそれは、ルールが野暮ったく可視化されたことで逆に「恋愛禁止」なる風潮を骨抜きにする、すなわちアイドルというジャンルが体現できる魅力が、もはや時代錯誤の「風潮」にからめとられるものではないことを示唆する例になった。これは、今日のシーンの体制にいるAKB48がいびつさを温存しながらも示す、「恋愛禁止」に対してのスタンスの現在地である。「万策尽きた」先にあるのがこのような超然としたスタンスなのであれば、それはより風通しのよい未来なのかもしれない。「熱愛」が発覚した時、それにタブーめいたニュースバリューを求めたがるような価値観が、そこでは軽快に置き去りにされている。

 あるいはアイドルシーンの大小のトピックをサンプリングしつつ著された朝井リョウの小説『武道館』は、まさにアイドルの「恋愛禁止」を主題にした作品である。アイドルファンでもある朝井がこの作品のラストで描くのは、「恋愛禁止」が矛盾を生み出す現状を反転させたかのような近未来である。それはあくまでファンタジーとして描かれた、「風潮」以後の世界だ。けれども、その爽快さを感じさせるファンタジーは本来、社会の価値観にとって非現実的なものではない。もちろん、朝井はそれですべてが平穏になるような単純なユートピアを想定しているわけではないし、ある「風潮」がなくなった先には別の「炎上」の芽だっていくらもある。しかし、このようにファンの目線から「風潮」の息苦しさを問い続けることは、ジャンルに対しての誠実さでもある。矛盾を生み続けるような習慣を疑わなくなった先にこそ、世間との絶望的な乖離は生まれてしまうのだから。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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