中納良恵の快作『窓景』の音楽的背景とは? EGO-WRAPPIN'とソロのキャリアを振り返る
ヴォーカリスト中納良恵の圧倒的な才能
もちろん、EGO-WRAPPIN'のキャリアを評価すべきなのは、センスの優れたルーツミュージックへの着眼点だけではない(この点で言えばいわゆる渋谷系人脈のほうが特筆されるべきだろう)。
EGO-WRAPPIN'が本当に評価されるべきなのは、そうしたきわめて記号性の強いアプローチを採用しながらも、決して「好事家御用達アイテム」として消費されなかったことにある。音楽的な独自性の強さはともすれば「コンセプトありき」に陥りやすく、シーンの起爆剤にはなり得ても継続的な支持と評価を得ることは困難な場合が多いが、EGO-WRAPPIN'は常に芸術性とポピュラリティを両立した良質の作品を世に問い続けた。
何がその困難なことを可能にしたのか。それはひとえに中納良恵のヴォーカリストとしての才能であり、他に比べるもののない声そのものである。
EGO-WRAPPIN'は盤においては特にアダルトな雰囲気を感じさせる曲が多いが、ライブにおいては中納の天衣無縫なパフォーマンスが際立っている。彼女は間違いなくJ-POPシーンでも屈指のヴォーカリストであるが、上手さよりも声そのもの・発音そのものがすでに音楽として成立するような歌い手であり、何より表現者として優れている。中納のヴォーカルが単にスキルフルなだけのものであれば、EGO-WRAPPIN'の濃厚な世界観はいちサブカル的記号と化し、「はいはい、そういう感じのね」と、めまぐるしいシーンの中で流されていったかもしれない。
EGO-WRAPPIN'の神髄は、表層に見える強烈な記号性や濃厚な世界観ではなく、それらを打ち出しながら音楽の本質、具体的には楽曲の良さと圧倒的な歌の力で勝負し続けたことにあるのだ。
『ソレイユ』のナチュラルな魅力
EGO-WRAPPIN'の世界観もたまらなく好きだが、中納良恵のヴォーカルを“素”でも堪能してみたい――意識的であれ無意識的であれ、エゴファンの間ではそういった願望が募っていたかもしれない。また中納自身も、シンガーソングライター然とした自らの打ち出し方を模索していたようだ。
2007年にリリースされた中納良恵1枚目のソロアルバム『ソレイユ』は、ポストロック的なフレーバーで仕立てられているものの、キャロル・キングや矢野顕子、大貫妙子といったSSW系作家を彷彿させ、フェアーグラウンド・アトラクションのようなトラッド感までをも纏った傑作で、中納良恵のヴォーカルを無添加で味わい尽くせる待望の作品であった。
そして改めて際立っていたのが中納のソングライターとしての力量で、向井秀徳など個性の強いミュージシャンを随所に起用して十分に刺激的な音響を実現しながら、「うたもの」アルバムとして10年は軽く聴き続けられる普遍性をも『ソレイユ』は獲得している。
私も『ソレイユ』を聴いた時、あまりの素晴らしさに無人島ディスク級の感動を覚えたが、そこには多分に驚きも含まれていた。『ソレイユ』で見せた中納良恵のたおやかな表情が、バンドでのそれとあまりにも異なっていたからだ。しかしよくよく聴いてみると、EGO-WRAPPIN'とソロは確実に地続きの関係にある。多彩なルーツを消化しオリジナルな表現に結実させる彼女の才能に、改めて感服した。