栗原裕一郎の音楽本レビュー 第8回:『ニッポンの音楽』

『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む

「Jポップ」の終わり

 たとえば、はっぴいえんど(70年代)にとっての「外」は、シンプルにアメリカだった。彼らの課題は、洋楽であるロックを日本でやることだったわけだが、定説となっている、日本語をロックというフォーマットに乗せる試みそれ自体は、実のところそれほど難問ではなかったのだと佐々木はいう。そうではなくて、つまり「日本語のロック」を追究したことよりも、「日本のロック」のあるべき姿を模索した点に、はっぴいえんどの「ニッポンの音楽」の開闢たる独自性はあったというのだ。

「それら〔海外のロック〕を「日本/語」でやるにあたって、たとえば「日本のサイケ・ロック」「日本のプログレ」などと呼ばれる直截的な踏襲(直訳)にも、あるいは逆に、日本/語の特殊性に安住したドメスティックな態度(超訳)にも陥ることなく、いわば「ニッポンから見たアメリカ」と「海の向こうから見たニッポン」が交叉するポジションで音楽を作り出そうとした点に〔はっぴいえんどの独特さ、貴重さは〕あるのではないか」

 YMO(80年代)、渋谷系と小室哲哉(90年代)、中田ヤスタカ(00年代から現在)と「リスナー型ミュージシャン」の系譜をたどることで、その「交叉」から生み落とされてきた「ニッポンの音楽」の変遷が描かれていくわけだが、「内」と「外」の区別の溶解が完了し、「ここ」しかなくなりつつある現在、その志向=欲望はもはや向かう対象を失ってしまった。つまり終わった。「ニッポンの音楽=Jポップ」は終わりを迎えたのだ、というのが佐々木の「物語」の粗筋である。

「物語」を読み解くにあたって、読者が戸惑うところがあるとすれば、それは、「Jポップ」が何なのかということではないかと思われる。最終的には「ニッポンの音楽」は「Jポップ」と等号で結ばれてしまうのだが、佐々木は、90年代に流行語として登場し漠然と邦楽全体を覆うに至ったこの言葉を、かなり拡張した、両義的な意味と象徴性——充足と閉塞、もしくは成功と不成功——を帯びたものとして使っていて、それがわかりにくさの一面を招いている。

「この言葉〔Jポップ〕の命名に潜む矛盾と逆説こそ、この国の音楽が、幾度となく直面し、何とかして解決しようとしながら、常に失敗し、その失敗が齎す成功を繰り返してきた、こことよそにかかわる難問そのものなのです」

 佐々木は結論部分でこう述べるのだけれど、この総括を読んでもまだわかりにくさは残る。「Jポップ」によって以前以後に分断されていたはずの「ニッポンの音楽」が、「Jポップ」に等しいものになってしまうという位相の混濁が起こっているからだ。「内」と「外」の溶解にも似たこの混濁は、論旨を汲むなら、「J」はある種のプロセス、それも過去にも遡及的に働くプロセスであって、4つのディケイドで語られてきた「物語」は、終末を迎えるに至って「J」という記号に収束したということだと解釈できるか。

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