円堂都司昭の新曲「GOLDEN GIRL」レビュー

いきものがかり新曲はなぜ「君」が主人公なのか “歌の共有”めざす創作スタンスを分析

 例えば、秋元康がAKB48グループに与える詞にも、「僕」は多く登場する。それは、アイドル・グループを視聴するファンの「僕」と彼が好きなメンバーとの関係を、恋愛をモチーフにした詞に反映する手法だ。

 また、演歌では男性歌手が女心を、女性歌手が男心を歌うことも多い。それらは、男/女の感覚のフィルターを通して女/男の姿を表現することで、異性の美点、色気を増幅拡大してみせているといえる。

 一方、女性の吉岡が「僕」の一人称で歌ういきものがかりは、AKBとも演歌とも異なる狙いでそうしているように思う。リーダーの水野をはじめ、メンバーがたびたび述べているのは、曲を届ける、歌を伝えるということ。当然、メンバーの感覚を通して伝えることが前提になっているが、各人のパーソナリティを前面に出すのではなく、歌の物語を伝えることを優先しているのだ。彼らが目指しているのは、より多くの人が共感し共有できる大衆的な音楽だろう。このため、女性歌手が女性性を強調するよりも、「僕」を一人称に多用することで歌の物語の間口を広げていった。そんな図式である。

 吉岡の等身大に近い曲も、特別に個人的なものではなく、数ある物語のひとつとして多くが共有できるものとして歌われている(逆にいうと、彼女がソロ・アルバムを作るとしたら、個人的な感情を「私は」「あたしは」と歌いたくなった時だろう)。

 昨年リリースされたいきものがかりのアルバム『I』(=「私は」)のタイトルも、メンバーが主人公であるとともに、聴き手一人ひとりが主人公になれるという意味がこめられていた。

 今年発表したシングルでは、「ラブソングはとまらないよ」(水野作。一人称は「わたし」)で、このユニットが得意とする思春期的な世界を描いていた。曲との距離のとりかたを知っているから、今でも思春期を歌えるのだろう。

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