軍歌は国をあげてのエンタメだった!? 新たな史観を提示する新書『日本の軍歌』を読む

 従来の史観では、日中戦争からの軍歌ブームは、「検閲制度や軍部の暴走など「上から」の統制強化で説明されてきた」が、そうではないのではないか。「メディアやレコード会社の時局便乗、音楽評論家・作詞家・作曲家たちの生き残り戦略、娯楽を求める国民の欲望など、様々な当事者の複雑な利害関係」が一致したところで生じた現象だったのではないか。

 軍歌は、日本国中、官民あげて入れ込んでいたエンターテインメント・ビジネスだったというのが著者の見方だ。件の幼稚園について著者はTwitterで「軍歌というのは商品であって(…)別に文化でもなんでもないです。この幼稚園も宣伝のために軍歌を使っているという意味では、軍歌は「愛国」を看板に掲げたビジネスと相変わらず馴染みがいいんだと思います」と述べている。

軍歌はグローバルな音楽

 本書は軍歌の歴史を扱ったものだが、独特な視点が二つある。一つはいま触れた「軍歌は政治的エンタメビジネスだった」という視点、もう一つは、グローバルな観点から日本の軍歌を考えるという視点だ。

 1885(明治18)年の、そのタイトルも「軍歌」が日本初の軍歌として据えられているのは、この第二の視点ゆえだ。「軍歌」の作詞はのちに東京帝国大学総長、文部大臣となる外山正一、作曲は文部省音楽取調掛長でやがて東京音楽学校(現在の東京芸大)校長となる伊澤修二。バリバリのエリートたちによって作られたものだったわけだが、外山がこのとき規範としたのは、フランスの「ラ・マルセイエーズ」とドイツの「ラインの護り」だった。どちらも国民統合のために作られた軍歌であり、これらを参照して、「国民」というアイデンティティをまだ持つにいたっていなかった日本人を、戦うという意識において統べるべく作られたものが「軍歌」だったのである。

 前回取り上げた若尾裕『親のための新しい音楽の教科書』とも関係するが、伊澤修二は、音楽教育に西洋音楽の導入を推し進めた当の人物であり、西洋音楽は、日本人に「国家と国民」という意識を植え付けることを主な目的とするツールだった。唱歌と軍歌はどちらも国民統合を目的としていた点で似たものであって、事実、唱歌には軍歌が少なからず含まれていた。

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