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宮台真司の月刊映画時評 第7回(後編)

宮台真司の『シリア・モナムール』評:本作が『ヒロシマ・モナムール』の水準に留まる事実への苦言

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ショボい「書割」の中での薄ぼけた「影絵」の戯れ

 政治的な正しさを括弧に入れて言えば、悲惨さを前に「人を殺してはいけない」「宗教的寛容が必要だ」と対抗するのは、それ自体が「書割」的リアリティの内部で営まれる「影絵」のゲームなので、実は無力です。「戦争」も「平和」も、そうした記述自体イデオロギー(虚偽意識)であって、「書割」的リアリティに過ぎないことは、一般市民にとってすら自明になりつつあることでしょう。

 「戦争」や「平和」の記述は、国民共同体や信仰共同体などの共同性を前提にします。要は共同体にとっての戦争であり平和です。でも、国民共同体も信仰共同体も大規模定住社会が要求する「影絵」。「影絵」がないと大規模定住社会は存続できない。自分も生きられず、仲間も守れないのです。だから、本来「仕方なく」<なりすまして>戦争や平和を語るのです。

 「仕方なさ」を思い出すべく、かつて祝祭がありましたが、祝祭なき後も暫くは、祝祭の機能的等価物として、制御不能を旨とする情熱愛がありました。ただの男や女を自分にとっての全体だと崇め奉る「ありそうもなさ」ゆえに疑わしい「真の心」の存在を、結婚を以て証する所から、情熱愛は近代家族形成に利用される一方で、タブー侵犯の享楽にも満ちていました(倫ならぬ恋!)。

 祝祭がそうであるように、制御不能な性愛も、定住社会の法から見れば非日常のアブノーマリティですが、このアブノーマリティにこそ人の本来の姿があると正負を反転させるマルキ・ド・サドからバタイユに連なる系譜もあります。そうした本来性から見れば、<社会>こそ希薄な「書割」であって、我々はそこを「影絵」に<なりすまして>生きているのです。

 性愛におけるこうしたサド=バタイユ的な感受性の継承線も、日本や先進国では、僕らの世代でプッツリ切れています。例えば、『LOVE【3D】』評で触れた、乱交ならぬスワッピングーー愛する相手に生じた享楽を自らに移転して享楽し、愛する相手への見知らぬ男(女)の興奮を自らに移転して享楽する営みーーも、僕らの世代が最後だと言えます。

 フロイトが「死の欲動」に引きつけた、享楽に満ちた性愛は、サドの営み程でなくとも、本来<社会>とーー定住社会の法とーーと両立しません。「それゆえ」、社会の秩序ならぬ性愛のカオスこそが本来性ではないかとの感覚をシェアし、『赤い殺意』で日常に再帰的に着地した主婦の如く社会の秩序を<なりすまして>生きようという感覚を抱くーー今の若い人たちにはありません。

 だから、『LOVE【3D】』評や『二重生活』評などで繰返し語ったように、何が「仮の姿」ーー<なりすまし>ーーで、何が「真の姿」なのかという古典的な主題は、今日ますます論じる価値があります。マジガチで素朴に<社会>を生きることが益々まずくなりつつあります。『シリア・モナムール』で描かれるような悲惨を益々量産しがちになっているからです。

近代社会の崩壊過程の一端が表れた『シリア・モナムール』

 近代社会は[①主権国家・②資本主義・③民主政]のトリアーデですが、グローバル化による資本移動を背景に、それがトリレンマ(三方並び立たず)に変化しました。それを象徴するのが、アメリカのトランプ騒動と、イギリスのEU離脱騒動です。双方に共通するのは「誰が国民なのか?」問題です。それが、素朴に<社会>を生きる態度の、まずさを象徴することを説明します。

 米国大統領共和党候補者ドナルド・トランプは元は民主党員だったのが排外主義者に「変節」したことを訝る向きがあります。これが愚昧なのは、再配分主義リベラル「だからこそ」排外主義者になるからです。再配分は所詮は「仲間内」で行うもの。誰が仲間かが自明でなくなれば「アイツは仲間じゃない!」とフィンガーポインティングが始まるのは当たり前です。

 国民共同体を支える「国民は仲間」という意識は、フランス革命とそれに後続するナポレオン戦争(1789~1815年)の成果で200年の歴史しかありません。ちなみに主権概念が政治的に自明になったのは、30年戦争に引き続くウェストファリア条約(1618~1648年)の成果で、その160年後に国民概念が成立した結果、「国民主権」という[①主権国家と③民主政の結合]が生まれました。

 その程度の歴史しかないので、見ず知らずの範囲を「仲間」と見做す国民国家の安定性が、歴史的検証を経たとは到底言えません。寄席集めの傭兵と違って国民軍は強いというのがナポレオン戦争の教訓で、それゆえ日本の維新政府が国民意識の形成に注力して近代天皇制を導入したのは有名ですが、早くもベトナム戦争の時代には「国家のために死ぬ」のは困難になりました。

 万の単位で若者が戦争で死ねば政権が倒れるーーウォーターゲイト事件でのニクソン大統領の失墜(1972年)が示すことです。それに学んだ米国政府と兵器開発企業は以降、トマホークからドローンに到る遠隔操縦兵器の開発に勤しみます。ドローンの誤爆が昨今話題になり、地上部隊が調査してから攻撃すべきだとの議論がありますが、こうした経緯に鈍感過ぎて無力です。

 「国民は仲間」という意識はその程度にヘタレました。結果、「その程度の仲間のために死ねるものか」という意識が高まり、命知らずの国民軍が無理になる一方、「あんな奴は仲間じゃない」という意識も同時に高まります。「国民は仲間」の自明性があった内はリベラル・ユニバーサリズムのふりが出来ても、自明でなくなればリベラル・ナショナリズムに縮退します。

 リベラル・ユニバーサリズムは、人権という普遍価値に基づき、政治に普遍主義的な正当性を与えます。リベラル・ナショナリズムは、最初にどこで生まれたかで「人権」の座席に座れるか否かが決まり、本人に責任がない理由で「コイツは人間、ソイツは人間モドキ」と選別します。正当性よりも事実性が優位するから、「じゃあ喰うか喰われるかで勝負だ」となります。

 アメリカでは、民主党員だったトランプが排外主義的言動でブルーカラー・リベラルを吸引します。イギリスでは、労働党支持者の三分の一がEU離脱に賛成しましたが、彼らもブルーカラーです。双方とも「あんな奴は仲間じゃないからシェアから外せ」と噴き上がる<劣化左翼>。両者が結託する形で、排外主義の統一戦線が生まれつつあるのです。

 「温かい共同体」を目差す筈の左翼が、排外主義の<劣化左翼>に堕する一方、言語的理路を過剰に信頼せず共通感覚の醸成を目差す筈の保守が、血筋や人種に拘る排外主義の<劣化右翼>に堕する。<劣化左翼>と<劣化右翼>が手を取り合って近代に正当性を与えてきた普遍主義(人権!)をゴミ箱に投げ捨てるーー昨今の政治状況をかつての左右概念で括るのはもはや無理です。

 イギリスを見ると、労働党が、インテリ層=リベラル・ユニバーサリズム、非インテリ層=リベラル・ナショナリズム、という具合に分解する一方で、保守党は、都市部=伝統的な保守主義、地方部=国粋ナショナリズム、という具合に分解しています。フランクフルト学派の枠組通り、人権の普遍価値からすれば救われるべき弱者層が、<感情の劣化>に見舞われるのです。

 <劣化右翼>の国粋ナショナリズムと、<劣化左翼>のリベラル・ナショナリズムの結合は、どの先進国でも例外なく進みつつあります。背後にあるのは、グローバル化による資本移動がもたらした中間層分解と共同体空洞化(ソーシャルキャピタル崩壊)が、「国民は仲間」という国民共同体のありそうもない奇蹟を、文字通りあり得ないものにした、という共通の展開です。

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