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『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー

音楽プロデューサー・樫原伸彦が語る、尾崎豊との出会いと衝撃 「彼は全く音楽を生業としてやっていなかった」

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 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、作編曲家として30年以上のキャリアを持ち、ロックバンドからアイドルグループ、映画音楽まで、ジャンルに捕われず様々な音楽制作を行っている樫原伸彦のインタビュー記事を公開した。

 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。樫原に音楽の原体験から、転換点となった尾崎豊との出会い、そして楽曲制作のこだわりまで、丁寧に紐解きながら語ってもらった。

「『もしかしたら、これで暮らせちゃうんじゃないの?』って、ちょっとだけ……なんの根拠もなく思い始めて」

――まず、音楽の原体験からお聞かせください。

樫原:子どものころから流行歌が好きで。昔で言う歌謡曲——まあ今で言うJ-POPですよね。それで中学くらいになってフォークギターに出会って。身近に伴奏ができる楽器があるんだと知ったのがフォークギターでした。それによって、洋楽邦楽問わずシンガーソングライターのコピーで弾き語りを始めるんです。

――現在はピアノをメインで演奏されている樫原さんですが、最初はギターから入っているんですね。

樫原:そうですね。フォークギターでコードが自由に弾けるというのを知り、その後ピアノにもコードがあるということを知るわけです。それでビートルズの『レット・イット・ビー』を演ってみる、みたいなところから、ピアノで弾き語りをする楽しみを知ったんです。高校に入ると“バンドやろう”みたいなことを言い出すヤツが周りに出てきて、それじゃあオレは何の楽器をやろう?ということになったときに、ギターは人気あるし、余ってるのはキーボードだと言われて(笑)。当時はまだシンセサイザーが出ていない時代で、キーボードというと電子オルガンに近いものがYAMAHAから出始めた頃。まあ多少いじるとシンセっぽい音は出たんだけどね。

――バンドではどのような音楽をやっていたんですか?

樫原:ハードロックのコピー。ディープ・パープルなんかをよくやっていました。その後、ブラスバンド部に入ったんですよ。で、チューバっていう楽器があるんですけど、それを担当することになって。ただいかんせんこの楽器がねえ……登場回数が少なくて暇なの(笑)。退屈だったから、全部の楽器のパート練習を巡回することを始めて。『ちょっと一回吹かせて!』みたいな感じで……まあそれが後々、幸いするんだけど。ブラスバンドというのは応援の行進曲とか、クラシックの吹奏楽をメインでやるんだけど、当時はフュージョンブームがあって、ジャズやフュージョンを聴く機会が増えたんです。で、ブラスバンドでもスタンダードのビックバンドのナンバーをやってみる?という話になって。

――新しいものを持ち込もうとした、と。

樫原:うん。自分はビックバンドやスウィングジャズをやってみたら楽しいのにな〜と思って先輩に働きかけたんだけど、クーデターには失敗した(笑)。でも、その中にいる有志とバンドを組もうということになって、フュージョンバンドを組みました。その時に、チューバじゃなんだからキーボードをやろう、ということになって、見よう見まねで鍵盤を始めたんです。そしてそのバンドで、コンテストに出始めて。そのバンドは2年くらいやっていたんだけど、だんだん大所帯になり、メンバー構成がブラッシュアップされていくんですよね。ベースは今も活躍している有賀啓雄という人で。今思えばたまたまいいメンバーがいたという感じ。

――その時はまだ、プロになるということを意識せずやっていたという感じだったんですか?

樫原:そうそう。でも、あるYAMAHAのコンテストで勝ったときから、いろいろなレコード会社の人だったり、いろいろな先輩フュージョンバンドの人たちが声をかけてくれて。自分も高3のときにあるフュージョンのプロにスカウトされて、「1ツアー廻ってみない?」って言われたんです。それはハーモニカの八木のぶおさんという人がリードをとる、カーティス・クリーク・バンドという、ちょっとメロディックなフュージョンバンドだったんだけど、それからセミプロみたいな活動をするようになるんです。そのくらいから『もしかしたら、これで暮らせちゃうんじゃないの?』って、ちょっとだけ……なんの根拠もなく思い始めて。

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「尾崎豊に出会って、自分が商売として音楽をやっているのが恥ずかしいと思った」

――作編曲を始めたきっかけはなんでしょうか。

樫原:そのオリジナルバンドを始めたときに、オリジナル曲を作っていて。いろいろなフュージョンのコード進行とかコード構成を覚えて、いろいろな洋楽を聴く中で『なんだろう、この分数コードは?』って、分析を始めたんです。コードネームもみたことないし、それまで弾き語りをやっていたときに出てこなかった和声の響きというのに出会って。ロジックがとにかく面白くて、作曲や編曲が面白いなあと気がついたんだよね。それが入り口です。

――そして1983年に、カズ・マツイ・プロジェクトへ参加し、楽曲提供をしたことで、プロの作編曲家としてのキャリアが始まるわけですね。

樫原:うん。その頃はいろいろなシンガーのサポートピアニストとして働いていて。ステージアレンジとかも始めたり、CMの曲なんかも作ってましたね。その流れで話が来て。本当に運がいいんです(笑)。

――そんな樫原さんの名前を一躍有名にしたのが、1985年からの尾崎豊さんのツアーにピアニストとして参加したこと、そしてその後のプロデュースワークですね。

樫原:出会ったのは彼が19歳、自分が21歳の時で。最初に1ツアー彼の後ろでピアノを弾いて、すごく気に入ってもらって。彼のコンサートってロックコンサートなんだけど、ちょっとファジーなジャズテイストも入っていて、アドリブ的なことがどんどんライブ中に起きるんです。それがすごく面白くて。それで彼が充電期間を取った後、プロデュースも任されることになって。初めて“プロデューサー”というクレジットをされたのが、この尾崎豊との仕事。アーティストプロデュースということを初めて意識して手掛けたのが『街路樹』というアルバムですね。でもその時はまだプロデューサーブームも来てないし、プロデュースってなんだろうという、手探り状態でした。

――尾崎さんから受けた一番大きな影響は、どんなことだったんでしょうか。

樫原:たくさんありますね。一番衝撃的だったのは、彼は全く音楽を生業としてやっていなかったこと。本当に“生き様”だったんだよね。こっちはツアーに出てるということが仕事なんです。1ツアーが30本だとしたら、30本分の契約をしてギャラを貰うからね。なのに尾崎はツアーの一日目で、ステージから飛び降りたりするんです。その日その日、その歌を伝えるために、全身全霊で向かうわけ。そんなアーティストをそれまで見たことなかったから……本当に“音楽で生かされている”んだなと思って。そんな人、後にも先にも出会ったことがない。海外には反戦歌を歌っている、ポリシーのあるミュージシャンがたくさんいることは知っているけど、日本ではまだ身近じゃなかったんですよね。それを自分と大して年の変わらない尾崎がというのが……自分が商売として音楽をやっているのが恥ずかしいと思った。考え方を変えなきゃ、って思ったきっかけになりました。音楽で何か……お金儲け以外のことができるって思えたのは、尾崎に出会ったおかげ。だから彼との出会いはその後、自分がミュージシャンとして生きて行く上で非常に重要なファクターなんです。一緒に仕事をしなくなった後に彼は亡くなったんだけど、未だに自分の中には彼と制作した曲たちが流れていて、当時の曲も全部弾けると思う。本当に自分にとっては、ともに走った青春という感じなんです。

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「若手のクリエイターと組むことが自分の音楽に活きる」

――その後30年以上のキャリアの中で、ジャンル問わず膨大な量の作編曲をされていますが、ミュージシャンとしてキャリアをスタートした樫原さんがもともと強く持っていらっしゃるアーティスト的な部分と、プロの職業作家としての部分の兼ね合いは、どのように図っているのでしょうか?

樫原:その葛藤はめちゃくちゃありますよ。24歳のときに尾崎との仕事が終わって、自分を変えようと思って事務所を変えたんです。それは何故かっていうと、『自分も歌いたい!』って思ったからなんだよね、気の迷いで(笑)。だからアーティストが所属している事務所に移って。一年間アレンジャーをやめたんです。それで自分のやりたい音楽を作った。でもマーケッタブルなものが全く出来なかったんです。それまでは仕事としてやれてたのに、自分のことを自分でジャッジ出来なくなってたんですね。今聞いたら『バカじゃないの?』って感じの曲だと思うけど。その頃は仕事としてリクエストと向き合わないと、スイッチが入らなかったんでしょうね。

――ちなみに現在の制作は、どのような環境で行われているんですか。

樫原:自宅にスタジオがあるんですけど、機材は割と古いものをそのまま使っています。実はソフトシンセを一切使っていないんです。最近だと打ち込みよりもオーケストラ編成のような仕事が多くなったので、そんなに必要性がないんですよね。ヨーロッパ製のシンセ……ポリモーフだったり、ノヴァというテクノ系のシンセが無駄に並んでいます(笑)。同じ音色でも音の太さが違うし、テクノシンセの音の厚みが単純に好きなんですよね。あとはアナログシンセのツマミをいじるのが好きっていう、それだけの話(笑)。気持ちの入り方が違うと、音楽も違うんですよ。フィルターを開くのも、シンセのつまみを両手で捻って入力して、という風にやってます。こんなのパソコンの画面上でもできるんだけど、やっぱり手でやりたい。音をデジタルに寄せたほうが良い作品をプロデュースするときは、若手のアレンジャーに頼んでますね。その場合、自分は曲とプロデュースに専念する形でやったりしています。

――そこには若手を育てているという意識もあるんでしょうか?

樫原:いえいえ、こっちも刺激を貰っているから。師匠と弟子という関係ではなくて、やっぱりパートナーとして若手のクリエイターと組むことが自分の音楽に活きるから、盛んに絡んでいきたいと思っているんです。この年になっちゃうと、なかなかイノベーションがないんだよね。その代わり知識とテクニックは持っているから、若手に学ばせてもらう分、彼らにはベーシックでオーソドックスな手法やテクニックを伝えてみる、という。若手と情報交換をするというのはすごく大事なことですね。

「ソフトシンセが発達した功罪というものはすごくある」 樫原伸彦の考える“作編曲家のこれから”(後編)へ続く

(取材・文=岡野里衣子/写真=竹内洋平)

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