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栗原裕一郎の音楽本レビュー 第1回:『幻の近代アイドル史』

伊藤博文は明治時代のトップヲタだった!? 快著『幻の近代アイドル史』を栗原裕一郎が読み解く

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書評
栗原裕一郎
近代芸能
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 アイドルの起源をどこに求めるかというのはなかなか難問である。「アイドルとは何か」という問いと同様に、何を条件とするかによって答えが変わってくるからだ。1971年の南沙織をアイドル第一号とするのが定説になっているけれど、これにしても仮説がいつしか定着したというだけの話であって、それ以前から「アイドル」という言葉は使われていたし、アイドル的な存在というのもいた。

 南沙織=アイドル第一号説の論拠はいくつかあるのだが、一番大きいのは「テレビ(の普及)」だ。つまりメディアにより作られる虚像(とその質)に要点があるということで、映画、ラジオ、レコード……とメディアの変遷を遡っていくと、アイドル的な存在の元祖は、「カチューシャの唄」でポピュラーソング初のヒットを放った松井須磨子に行き着く。「カチューシャの唄」が大流行したのは1914年。ちょうど100年前のことだ。

 だが、ということは、メディアという縛りを外せば、アイドル的存在の系譜はさらに辿ることができることになる。というより際限なく辿れてしまうだろう。

 戦前のアイドル的存在を取り上げた本書は、そこで、メディアに代わる新たな枠を設けているのだが、それは何かというと……ヲタクなのだ。

「若い青年を熱狂させ、ときに恋愛感情を抱かせたというエピソードを持つ少女たち」を拾い上げる一方で、「同時代に活躍した有名女優であっても、そのようなエピソードを発見できなかった人物は取り上げなかった」というこの本は、硬い言い方をすれば、受容する者の側から描き直した近代アイドル史なのである。

明治のヲタもMIXを打っていた!?

 当時のヲタを熱狂させた近代のアイドル(的存在)とは誰か。

 娘義太夫の竹本綾之助、奇術師の松旭斎天勝、浅草オペラの河合澄子、宝塚少女歌劇の初期メン、ムーラン・ルージュ新宿座の明日待子といった面々で、時代でいうと、1887(明治20)年から1945(昭和20)年までのアイドルたちだ。

 資料から掘り起こされたヲタたちの行動は、本当に現在と何ら変わらない。ガチ恋に堕ち煩悶したあげく「世界が滅んであの子と僕の二人だけが残ればいいのに」と譫言を吐いてみたり、推しメンの現場に漏れなく姿を現したり。現場では、今でいうコールやMIXのようなものを打ったり、ステージから目線をもらえたもらえないで一喜一憂したり。新聞投書欄を巨大掲示板のように使ってコミュニティを作り、匿名でアンチな書き込みにいそしんだり、ディスり合ったり。

 娘義太夫の竹本綾之助には「ドースル連」という追っかけグループがいた。語りのさわりで「ドースル、ドースル」というMIXを打っていたことからそう呼ばれたのだが、後には、宝塚ヲタや浅草オペラヲタなどアイドルヲタ全般を指す言葉になった。

 ドースル連は「堂摺連」と書くが、当時は誰もが知る存在だったようで、夏目漱石や永井荷風の作品などにもその名が見える。メンバーは大学生が多かった。この当時(今も?)ヲタの大半はインテリだったのである。

 夏目漱石や高浜虚子、志賀直哉といった文豪も娘義太夫ヲタだったそうで、中でも直哉は、推しの昇菊・昇之助を「神に近し」と称えるほどのガチヲタだった。アイドルにドハマりした文化人知識人が、タガを外してあらぬことを口走るのも、あるいは日本の伝統なのかもしれない。

 宝塚の章では、初期メンの瀧川末子に入れあげた45歳の売れっ子評論家・青柳有美の乱心が紹介されている。「我が瀧川末子」「瀧川末子万歳」などともはや評論と呼べない与太を書き散らす一方で他のメンバーをこき下ろし、センター選抜で末子が選ばれなかったのは運営のゴリ押しだと決めつけ手前勝手な批判を繰り広げる。いずこの時代にもこういう人はいるのだなあと感慨が深い。

 娘義太夫の人気が高まりドースル連が目に余るようになってくると、マスコミのバッシングが始まる。黒岩涙香率いる『万朝報』が尖兵となって叩き始めたのである。著者は『万朝報』を、現在の週刊誌や『噂の真相』、『BUBKA』などにたとえているが妥当なところか。

 批判の内容も、まあ現在と大差ない。娘義太夫の太夫は可愛いだけでろくに芸もできない、そんな可愛いだけのアイドルにハマるなんて日本が劣化していることの象徴であり、貢ぎあげているお前らは搾取されているのだ! というようなものだ。

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