ゲームの元ネタを巡る旅 第23回
『デス・ストランディング2』発売記念 “死”の歴史を紐解く
多種多様な販売形態の登場により、構造や文脈が複雑化し、より多くのユーザーを楽しませるようになってきたデジタルゲーム。本連載では、そんなゲームの下地になった作品・伝承・神話・出来事などを追いかけ、多角的な視点からゲームを掘り下げようという企画だ。
企画の性質上、ゲームのストーリーや設定に関するネタバレが登場する可能性があるので、その点はご了承願いたい。
今回は『デス・ストランディング2』の発売を記念して、人々が死をどう受容してきたかについて解説しよう。
古代の死
古代において、人々が死をどのように受け取っていたのか、それらを事細かに理解する方法は少ない。出土品などから考古学的にどんな儀式が行われていたのかを知ることはできるし、後世の時代の画家が原始時代を描いた美術品も数多く存在するが、それらは想像に過ぎず、必ずしも裏付けがあるわけではない。
そのなかでも、死後の世界を芳醇に想像した民族は存在した。古代エジプトは良い例である(事実「デス・ストランディング」シリーズでもよく引用されている)。
古代エジプトでは、王族が来世で復活できるように、遺体を保存する解剖技術――ミイラ作りが発達した。そもそも乾燥した土地なので、貴族のように高度な防腐処理を施さなくとも、砂に埋めておけばミイラ化するケースも多かったという点もある。
「デス・ストランディング」シリーズでも言及されているように、エジプト人の魂の考え方はとてもユニークだった。
人間の霊魂は、イブ(心臓)、シュト(影)、レン(名前)、バー(魂)、カー(精神)の五つに大別される。特にカーが人間の体(ハー)から離れた瞬間に死が訪れると考えられていた。
死者は、イアルの野(葦の原野とも言う)に辿り着く前に、さまざまな困難に打ち勝って、冥界の王オシリスの裁きを受けることになる。そのために役立つものとして、護符などの副葬品が埋められた。
また、このように死後に神々と対話したり、食事を取ったりできるように、ミイラの口を開ける「口開けの儀式」を行うことが重要だった。こういったように死後の世界を地上によく似た楽園として捉え、死者がそこに旅立ったと考える信仰は世界各地に存在する。
マカーブル
中世において、天国や地獄とは異なり、これから浄罪される大量の人間を蓄えておく「煉獄」の概念が発達した。生者は死者の魂が救われることを祈るためにミサへと通う理由になり、日頃から悔い改めておくことで自身の死後に備えるという発想は、中世末期に免罪符という形でも商業利用された。
しかし、14世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパをペスト(黒死病)が襲った。人口統計は逆転し、中世社会は混乱を極めた。
そこで発達したのが「死の舞踏(Danse Macabre)」である。これは、死や腐敗といったぞっとする要素を描く表現様式であり、当時のアートや文学にたびたび登場した。代表的なものはミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』(1493年)など。
これにより、死の普遍性が浸透し、人々は絵画や文学作品を通して、そこに描かれる死や腐敗を自らのものとして受け取るようになり、急死を防いでくれる聖人や聖遺物に縋った。歴史家のフィリップ・アリエスはこれを「私の死」として表現している。この流行はルネサンスと衝突するまで盛り上がっていくことになる。
儀礼の世俗化・死の商業化
バロック時代に葬儀の大規模化は頂点を極め、以降は儀礼が世俗化し、死が商品として利用されていくことになる。それは免罪符のように教会が儲ける仕組みではなく、葬儀屋(undertaker)が職業として成立していったからだ。
もともとはイギリスの木工職人たちであり、棺を持って墓まで運んでいたが、時代が下るにつれて葬儀全般を担うようになった。次第に葬儀はディレクションされるようになり、教会内に埋葬することも疑問視されるようになったことで、18世紀以降は墓地をどこに置くのかについては、現在のように都市計画とともに考えられるようになった。
これにより、身近なものだった墓は都市近郊に追いやられることになり、死が生者の日常から切り離されていくことになるが、一方で芸術家たちは墓場そのものに詩情を抱くことになった。
日本での死の受容
少し駆け足ではあるが、日本での死の受容についても解説しておこう。
古代日本では、死は「穢れ」として忌避され、死者は村落から隔離された場所に葬られた。『古事記』で書かれる国造り神話においても、カグツチを産んだ傷によって死んだイザナミを、イザナギが黄泉の国まで探しに行く話は有名である。
奈良・平安時代には仏教の影響が強まり、輪廻転生や極楽浄土といった思想が浸透した。貴族層を中心に臨終行儀や死後の往生を願う儀式が整備され、死は修行の終着点として肯定的にも受け入れられた。中世には浄土宗・浄土真宗が庶民に広まり「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽往生が可能とされた。
戦国時代や江戸時代には、武士道や儒教的倫理の中で、死は名誉ある行為や忠義のための自己犠牲として位置づけられた。
近代に入り、国家神道が制度化されると、戦死が英霊とされ、死は国家への献身とみなされた。太平洋戦争においてこの思想は軍事利用され、多くの若者を死地に追いやるための大義名分として機能してしまう。
先述した多くの国家と同様に、戦後は高度経済成長とともに死は日常から追放されていった。近年では医療技術の発達もあり、どこから“死”と呼べるのか、議論が活発化している。
以上、世界各国で死がどう受け入れられてきたかを簡単に解説させていただいた。非常に重たいテーマであり、まだまだ語れることは山ほどあるので、今後この連載で一部分だけクローズアップした形でお届けできたらと考えている。
参考資料・サイト:
ミシェル・ヴォヴェル『死の歴史: 死はどのように受けいれられてきたのか』(知の再発見双書 63)
GOLDEN CHARTER FUNERAL PLANS - A short history of the Funeral Director profession
https://www.goldencharter.co.uk/news-and-info/2018/a-short-history-of-the-funeral-director-profession/
真言宗智山派 総本山智積院 愛宕薬師フォーラム報告「来世への祈り―古代エジプト人の死生観―」
https://chisan.or.jp/shinpukuji/center/workshop/forum/%E6%9D%A5%E4%B8%96%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E2%80%95%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%BB%E7%94%9F%E8%A6%B3%E2%80%95/
兵庫県立歴史博物館「イザナギとイザナミの国造り」
https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/legend2/story14/