【ネタバレあり】現代に蘇る西部劇から“有害な男らしさ”を考える 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と『レッド・デッド・リデンプション2』の共通点と違い
その無力さを象徴する結末こそ、主役……フィルやアーサーの死にほかならない。本来、主役の死はしばし唐突なものだが、両作に限って、その印象を受けない。むしろあらかじめ定められていたかのような、そうあるべきだと納得させるような、安らかな死を迎えている。
たしかに、2人は間接的には人間の悪意と裏切りにより殺されている。フィルは母親を守らんとするピーターに、アーサーは政府に雇用されたピンカートン探偵社(が唆したマイカ)に殺される。冒頭にあったような「男らしい」振る舞いが、その「有害さ」を社会的な利益上、咎める形で排除される。これは一見して急転であり、自業自得の末路とも解釈できる。
しかし、2人には死因がもう1つあった。実はフィルは炭疽病、アーサーは結核にそれぞれ冒されていたのである。どちらも重篤の疾病であるものの、仮に現代であれば病院に搬送された時点で十分に処置が可能である。しかし、2人は19世紀相応の医療しか受けることができず、息を引き取る。
厳密には、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』における炭疽病はピーターによる誘惑、『レッド・デッド・リデンプション2』における結核は借金を取り立てた男による残滓と、その感染経路こそ違うのだが、「西部」に生きる「強い男」が銃やナイフではなく「病」により斃れていく。時代の黄昏を背景に、この遠回しな死に様を共有する2つの西部劇は、ある種、単なる死や殺人をも超えた「滅び」を描こうとしたのではないか。
表面的には、2人のカウボーイは自らが撒いた「有害な男らしさ」により報復を受け、死亡する。しかし彼らはいずれも現代であれば処置可能な疾病に冒されていたことにより、言うならば、彼らの「死」には、彼らを男らしさに追い込んだ時代の象徴たる習慣や服装、動物たちといった、「時代」と共に、必然的かつ自然的に彼らが「滅ぶ」ことが重ねられているのである。
この「滅び」そのものが、恐らく両作が描こうと試みた世界なのではないだろうか。美しい西部と、残酷な人間性。懐かしさと、旧態依然の絶望。半ば必然的に排除されて然るべき過去と、同じく必然的に到来する未来。両作は西部劇とマチズモをモチーフとしているが、そこで描かんとした憧憬と悲哀は、普遍的な諸行無常である。
いま、まさに問題とされる「有害な男らしさ」と、その言葉に表れるような排除の攻撃性、そしてそうした言説に対立する形で現代に求められる新たな「男らしさ」の誕生を鑑みれば、人為的な死のみならず、諦観的な「滅び」を描いた両作の聡明な目線が明らかになると言えるのではないだろうか。