クラシック音楽家としてのすぎやまこういち 『ドラクエ』と交わるまでに生まれた“核”とは
余勢を駆って、すぎやまはアニメ劇伴の世界へ進出。TVシリーズ『科学忍者隊 ガッチャマン』の映画化にあたり、TV版を担当したボブ佐久間でなく、すぎやまが全て書き下ろすことになったのだ。この時、奏者にNHK交響楽団を指名。N響初のアニメ劇伴演奏というオマケもついてきた。「交響組曲〜」の名で出ているが、部分的にドラム/ベース/ギターといったロックセクションを導入した『オーディオ交響曲』に近いアプローチが採られている。こういった形態で編曲なされたものを“オーケストラ作品”と呼ぶかどうか意見が別れるところだが、すぎやまは次のように語っている。
「例えば、バッハやベートーヴェンの曲には、ワルツやポルカなどその時代に人気があった踊りのリズムが入っているのです。現代であれば、ロックやディスコのリズムが入ってくるのは自然な時代感覚でしょう」(2010年発行『CDジャーナル』3月号のインタビューなどによる)
この『劇場版 科学忍者隊 ガッチャマン』(1978年)を皮切りに、オーケストラを使った作品を(あかのたちお、小六禮次郎、神山純一らの力を借りながら)アニメ界で集中的に発表。一挙、羅列する。1979年『サイボーグ009〈第2期〉』、1980年『まんがことわざ事典』、1980年『伝説巨神イデオン』、1981年『シリウスの伝説』、1982年『THE IDEON 接触篇/発動篇』、1983年『子鹿物語 THE YEARLING』......。ロックのフィーリングを織り交ぜながら、氏の持ち味である美しいメロディを活かした管弦楽ばかりだ。特に、イデオンに関しては、劇中のモチーフを元に4楽章に構築しなおした『交響曲イデオン』なるレコードを制作。観賞用クラシックとして耐えうる、独立したオーケストラ作品を発表する。これを評論家・木村重雄は「すぎやま第三の交響曲」と位置付けた。第一、第二は〈オーディオ交響曲〉シリーズを指しているが、前述の通り一部に4リズムを従えた作品であったので、ようやく純然たるオリジナル交響曲作品のレコーディングを果たしたことになる。
並行して実写映画『地獄の蟲』(1979年)の劇伴なども手がけながら、1986年、ゲーム好きが高じて送ったアンケートハガキが縁で、エニックス(現:スクウェア・エニックス)からゲーム音楽の世界へ進出。PCゲーム『ウイングマン2』でデビューし、間髪いれず1週間で『ドラゴンクエスト』の音楽を作曲。後に“ゲーム音楽の父”とも呼ばれることになる第一歩を記した。ファミコンゲームであったので、PSG音源を使った3音ないし2音発声によるミニマム編成の音楽だったが、アポロン音楽工業のプロデューサーの発案により、オーケストラで編曲しなおしたレコードを出すことに。だが、ゲーム音楽自体がまだマーケットとして未成熟であったため思ったような予算が下りず、大編成シンフォニーとはいかなかったものの、20人ほどのストリングスに数本の管楽器を加えたカスタム楽団を見事操った。〈ドラゴンクエスト〉シリーズは右肩上がりで売り上げを伸ばし、社会現象のピークを迎えた1988年、NHK交響楽団を従えたシンフォニックアルバム『交響組曲ドラゴンクエストIII』を発表。アニメに続き、ゲームの世界でもオリジナルオーケストラ作品を打ち立てた。この時、すぎやま57歳。作曲家としてのみならず、ゲーム愛好家として日本カジノ学会や日本バックギャモン協会の要職に就いてきた氏にとって、まさに悲願を成し遂げた瞬間であったろう。
音大に学ばず、独学でクラシックの書法を会得。歌謡曲やCMでヒットを飛ばしたかと思えば、ロックと管弦楽を融合し、アニメで猛威を奮い、果てはゲームの世界にクラシックを根付かせてしまった。あまた偉大な作曲家あれど、ここまでクロスオーヴァーな足跡を残した作曲家はほかに見当たらない。
その後すぎやまは、1989年『ゴジラvsビオランテ』、1991年『リトル・シンドバッド 小さな冒険者たち』といった実写映画を担当するものの、両作品ともドラゴンクエスト関西コンサートで指揮棒を振った、デヴィッド・ハウエルに編曲/指揮を委任。〈ドラゴンクエスト〉シリーズを中心としたゲームワークスに腰を据えていく。以来30年、純音楽の世界に戻ってくることはなかったが、氏のバイオグラフィを俯瞰で捉えた時、ゲームと中世西洋音楽を融合しその垣根を取り払ってきた功績は、壮大な終活の始まりだったようにも思える。遠い未来、これらの作品がクラシック音楽と呼ばれる日が来た時こそ、その作曲人生はようやく完結を迎えると言えやしないだろうか。