クラシック音楽家としてのすぎやまこういち 『ドラクエ』と交わるまでに生まれた“核”とは

クラシック音楽家としてのすぎやまこういち

 2021年9月30日、作曲家のすぎやまこういち氏(以下、敬称略)が敗血症性ショックのため、90歳で逝去した。

 すぎやま氏といえば、RPGゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズの音楽が代表作として知られ、そのほかにも『帰ってきたウルトラマン』の主題歌や東京・中山競馬場の発走ファンファーレなど、多岐にわたる仕事で知られており、追悼の意をこめて、さまざまなメディアでは彼の音楽的功績が語られている。

 本稿では、そんな彼の“クラシック・オーケストラ音楽の作曲家”としての側面にあえてフォーカスを当てることで、キャリアの初期と中期にわたって形成されてきた、“越境する音楽家・すぎやまこういち”の核について迫ってみたい。

 クラシックやオーケストラの作曲家、と言われると、幼少期よりピアノやバイオリンの英才教育を受け、推薦で音大に入学し、何十段にも積み上げられた楽譜を読み、指揮棒が振れ、本場イタリアへ留学して現地の空気を吸収するーーそんなイメージを抱きがちだが、必ずしもそうでない。例えば、ドイツの作曲家・バッハですらイタリア留学が叶わず、ヴィヴァルディの楽譜を取り寄せて研鑽しているし、日本の現代音楽に目を向けても、伊福部昭、武満徹、冨田勲といった誰もが知る巨人たちも音大を出ていない。

 その武満や冨田と同世代にあたる《すぎやまこういち》は1931年生まれ。彼もまた音大に縁のなかった1人だ。子守唄がわりに英語で賛美歌を歌う祖母、マンドリンやピアノ、ギターを弾きこなす両親の元、幼少より音楽に囲まれて育ってきた。戦後まもなく父親が反物と交換して手に入れて来たベートーヴェンの3枚のレコードを中学の3年間で貪るように聴きこみ、楽譜と照らしながら音楽の用法を身につけていったという。いつしかすぎやま少年は指揮者を志すようになっていたが、ある日近所にやって来た指揮者の上田仁に、ピアノが弾けないなら指揮者は諦めるよう諭されてしまう。だが上田はヒントを与えた。「そんなに音楽が好きなら、作曲家を目指しなさい。」すぎやまの目標が定まった。

 高校に入るや、40人規模のスコアの編曲、指揮、そして練習の末に、ジャズコンボの一員としてベース演奏と、音楽生活の日々を送る。このころ、近所の知り合いのつてで依頼を受けて作曲したのが、谷桃子バレエ団「子供のためのバレエ 迷子の青虫さん」(1949年)で、30分ほどのピアノ組曲。放課後学校に残り、慣れぬピアノで1音1音確認しながら筆を進めていったという。学生の手習いとはいえ、これがクラシック作曲家としてのすぎやま作品の第一号で、ギャラもわずかながら出たようだ。後にピアニスト・横山幸雄の演奏でCD化されており、いまでも聴く事ができる。

 これだけの力量があれば音大など造作無いように思えるが、やはりピアノがネック。また、家計的にも授業料の安い東大進学を余儀なくされる。だが先ほどの「迷子の青虫さん」の再演を文化放送の芸能部長が見ていた縁で、文化放送へ入社。音楽ラジオ番組の制作に携わるようになる。開局と同時にフジテレビへ移籍し、ここでも『ザ・ヒットパレード』などの音楽番組を担当。ディレクターとして、プロが編曲した楽譜に触れたことが血肉になった。

 CM音楽や、自作テレビ番組などでオリジナル楽曲を書くなどしていたが、やがてディレクターを廃業し、ー本立ち。沢田研二、岸部一徳らが在籍したザ・タイガースをデビューから見守ってヒットを飛ばし、一躍歌謡界の最前線に躍り出たものの、やはりすぎやまの胸中には「クラシック作曲家としての自分」の姿があったに違いない。そんな折、フランスからポール・モーリアが初来日、日本にラブサウンズブームが起こる。レコード会社は、映画のテーマ曲やヒットソングをイージーリスニング風に仕立てた企画盤をこぞって制作しはじめ、すぎやまは、川口真、渋谷毅、筒美京平、青木望らに混じって、〈フィリップス・ゴールデン・インストルメンタル・シリーズ〉編曲チームに名を連ねる。1970年リリース『バック・トゥ・バカラック』『バック・イン・ザ・ビートルズ』の2枚のアルバムがそれで、ストリングスを中心に、時にホルン、ピアノ、ロックリズムセクションなどを加えた演奏は、当時としては珍しい編成もあって評価を得た。この時のディレクターが、ザ・スパイダースを手がけたグループサウンズの仕掛け人・本城和治で、クラシック進行を用いたGS歌謡を書くすぎやまの仕事を肌で感じていた1人だ。同年リリースの、エルヴィス・プレスリー「ハートブレイク・ホテル」ほか1956年〜1970年のロック15年の歴史を扱った『ロックン・ロール'70 ヴィーナス』(日本グラモフォン)も、同様にロックビートとストリングスによるモダンな感覚の作品であった。

 1974年、今度はフィリップスレコードの親元・ビクターからオーディオチェックレコード『Checking Audio By Music』を発表。クインシー・ジョーンズ「アイアンサイドのテーマ」やアイザック・ヘイズ「シャフトのテーマ」などのソウルミュージックを、ストリングスを用いた華麗でグルーヴィーなサウンドに仕上げて成功を収め、よりグレードの高いものをと、1976年にRCAで再びオーディオチェックレコード『オーディオ交響曲』の制作に入る。第4楽章にのみドラム/ベース/ギターを組み込んでいるが、第3楽章まではフルオーケストラで挑んだ10分ほどの組曲をA面に収録した。2人居るディレクターの片方は小池哲夫で、すぎやま作曲で知られる「亜麻色の髪の乙女」を歌ったヴィレッジ・シンガーズの元メンバー。小池はCM音楽のプロデューサーとしてすぎやまと何度も仕事を重ねており、録音現場で指揮棒を振る氏の姿を見ていたことだろう。歌謡界からクラシック界への大いなる一歩がこうして刻まれた。

 1977年には、ザ・ビートルズとオットリーノ・レスピーギにフォーカスした、東京弦楽合奏団『スーパー・ストリングス』を発売。ここでは弦楽のみで勝負し、クラシック編曲者としての存在を印象づけている。音楽評論家・木崎義二は一連の活動を「日本でポピュラー系の作曲家の数は多いが、演奏ものにアレンジして聞かせる曲を書ける人となると数は少ない。すぎやまこういちはその数すくない作曲家の一人である」と、器楽編曲者としての側面を高く評価している。

 1978年にロック+シンフォニーの共演が再度実現、『オーディオ交響曲 第二番』の発表を経て、東京弦楽合奏団『スーパー・ストリングス Vol.II』(1978年)に4楽章からなる「弦楽の為の舞曲」を寄せ、遂にオリジナルクラシック曲の発表に辿り着く。リリース年こそ1978年だが、実は遡ること1975年、NHK交響楽団から選抜された室内楽団「東京アンサンブル・フィルハーモニック」の依頼を受けて、彼らの定期演奏会用に作曲、初演されたものだ。

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