【ネタバレあり】『The Last of Us Part 2』に向けられた批判は妥当か? “不快さと誠実さ”併せ持つ問題作について考える
ゲームの持つ可能性と誠実に向き合った結果としての“不快さ”
正直に書くと、「アビー編」の序盤を迎えた際、筆者が本作をプレイする上でのモチベーションは相当に下がっていた。アビーとしてプレイすることへの拒否感もあるが、ようやくアビーの元へと辿り着き、クライマックスを迎えたかと思っていたら、ゲームの最初に戻されたような印象を受けたからである。「またこれをやるのか......」という徒労感を強く感じたし、ここでコントローラーを置いたプレイヤーも少なくはないだろう。
実際、アビー編に変わっても使用武器や使えるアビリティが若干異なる程度で、軸となるゲームプレイは大きく変わることはない。恐らく、Naughty Dog側もこれを考慮し、アビー編ではエリー編以上に熾烈な戦闘やダイナミックなロケーションでの探索が展開される。また、アビーはすでに復讐を終えた立場であり、物語にエリーが介入することは殆どなく、WLFとセラファイトという2つの集団にフォーカスを当てた全く新たな物語が展開される。序盤に感じた徒労感は徐々に薄れていき、アビーに対する理解も深まっていくものの、一方でゲームをプレイするモチベーションの中には、「早くエリー編に戻りたい」という気持ちも常に強く存在していた。
複数人の主人公の立場を切り替えながらプレイするゲーム自体は、『Detroit: Become Human』などを筆頭にして、すでに数多く存在する。しかし、それらの多くは、同じ時系列の中で主人公の切り替えが行われ、最終的には共通の目的、一つのクライマックスに向かって進むため、モチベーションが損なわれることは少ない。同じ時間軸をレオン、クレアの別々の視点でプレイする『バイオハザードRE:2』では、レオン編とクレア編をそれぞれで完結する別のストーリーとして切り分けることで、片方のストーリーを完全に見届けてからもう片方の主人公へ移行することができた。
したがって、ゲームプレイにおけるモチベーションの維持という点で、本作はこれらの作品に劣るかもしれない。しかし、本作は「徹底的にエリーに感情移入し、アビーへの憎悪を最大まで高めた状態でアビー編に突入する」ことに意味がある。クリアした今となっては、これ以外のゲームシステムは考えられない。ある意味では、モチベーションを損なうこと自体がNaughty Dog側の意図であるとも言えるからである。
そう、まずプレイヤーはエリーに徹底的に感情移入する必要がある。だからこそ、本作はエリー編においてもあえてプレイヤーが不快になる可能性のある仕掛けが施されている。例えば、カットシーンの最中、相手の口を割るために凄惨な暴力を振るう場面や、倫理的に抵抗感を与えるであろう動物を殺す場面において、普通のゲームであれば、ただ鑑賞して終わるところを、本作ではその場面でプレイヤー自らが攻撃のボタンを押す必要がある。放置してもストーリーが進むことはないため、プレイヤーはどれほど不快だとしてもボタンを押して、エリーが振るう暴力に加担しなければならない。
『The Last of Us Part 2』では、このように物語へ最大限に没入するために、不快なゲームプレイを強いられる場面がある。これについて、Naughty Dogのエゴではないかと批判することもできるし、ゲームというメディアならではの表現であると評価することもできる。ちなみに筆者は後者の立場である。
とはいえ、やはりアビーに感情移入できない、あるいは不快すぎてゲームプレイを止めたというプレイヤーも少なくはないだろうし、それはそれで正しい感想だと思う。本作のディレクターであるニール・ドラックマン自身も「嫌うなら全力で嫌ってほしい」と語っており、Naughty Dog側もそのリスクを踏まえた上で、ゲームというメディアで描けるストーリーテリングの可能性と誠実に向き合っているのだから。
贖罪の物語としての『The Last of Us』
では、「ジョエルを殺したアビーも、決して悪人ではない」ことをプレイヤーに分からせる、あるいは試すことが本作の目的なのだろうか? もちろん、そうではない。「アビー編」はジョエルの被害者側の物語であると同時に、すでに復讐を終えた人間の物語でもある。もしエリーが仮に復讐を果たしたとして、その先に待ち構える未来を示唆しているともいえるだろう。
復讐を果たしたはずのアビーは、その後もきっかけとなった出来事を夢に見るせいで、不眠症に苛まれている。そして、偶然出会った、本来であれば敵対関係にあるカルド教団・セラファイト出身のヤーラとレブという若者を命がけで、時にはWLFを裏切ってでも救う道を選び、一方で自らの復讐が原因で次々と信頼できる人々を失いながら、過酷な運命へと身を投じていく。何故、自分達を助けるのかというレブの問いに、アビーは「罪悪感」と答える。
つまり、「アビー編」は、自らが犯した罪=復讐による罰を受けながら、それでも人を救うことで何とかその罪を洗い流そうとする、贖罪の物語でもある。そして、実はこの構造はこれまでプレイしてきた「エリー編」でも全く同様である。
前作のエンディングでジョエルが取った行動は、アビーという明確な被害者を生むと同時に、「本来であれば自らの命と引き換えに人類を救うことができた」というエリーの希望をも打ち砕いている。そして、そのことから彼女に目を逸してもらうために嘘をついたとしても、いつかは真実が分かる日がくる。そしてジョエルはこの罪を許されることがないまま、亡くなってしまった。この「許さなかったこと」への罪悪感が、エリーを支配する。
「エリー編」は、単なる憎しみの連鎖を描くのではなく、自らが犯した罪=ジョエルを許さなかったことへの罪悪感という罰を受けながら、「アビーを殺し、復讐を果たすことでジョエルが報われる」と信じて罪を洗い流そうとする、こちらもまた同様に贖罪の物語なのである。
しかし、アビーとは違い、エリーの考えにはどこか無理がある。本当にアビーを殺すことが、ジョエルを許さなかった罪への贖罪となるのだろうか? 仮に復讐を果たしたとしても、それで自らが抱える苦しみは終わるのだろうか? 誰よりエリー自身が疑問を抱いているからこそ、エリーは物語を通して迷い続けている。まるで幾度となく本作のモチーフとして登場する蛾のように、真っ暗闇の中で光を求めて彷徨っている。それでも復讐こそが光だと信じて、エリーの物語は進んでいく。
そして、エリーとアビーは、自らが犯してきた罪を償うため、あるいは自らが犯した罪の罰と向き合うため、対峙することになる。その結末を描くために、Naughty Dogはエリーとアビーを対等に描く必要があった。
そして、Naughty Dogは『The Last of Us Part 2』のエンディングにおいて、今度こそユーザの解釈に逃げずに、極めて誠実に本作を終わらせている。とても長い時間がかかったが、ようやくこれで『The Last of Us』という物語が正しく終わることができたのだと感じている。