ずらかって、帰って、またずらかる 『オデュッセイア』が迎えた最高密度のハッピーエンド

※本記事は劇場公開後3週間が経過したことを考慮し、『オデュッセイア』エンディングシーンについて言及しています。ご注意ください。
「なぜ今さらギリシャ神話なんてカビ臭い題材をやるんだろう?」
クリストファー・ノーラン監督がホメーロスの『オデュッセイア』映画化を進めているらしいと知らされたときの率直な疑問である。筆者は『オッペンハイマー』(2023年)を支持する者ではまったくないが、それでも原子爆弾発明者という題材選択という点では現代的な必然性があったことは認めざるを得ない。『オッペンハイマー』でノーランは天下を取った。時代はノーランである。しかし、喩えはあまり良くないかもしれないが、たとえば連合赤軍事件の強力な映画化に挑戦した映画作家が一転して次回作は『忠臣蔵』をやりますなんて宣言したら、人は幻滅するでしょう。
答えはすでにクリストファー・ノーラン自身が用意してくれている。ロサンゼルス・タイムズ紙のインタビュー取材に応じたノーランが「これまでの自作すべてがオデュッセウスの物語を語っていた」と明言しているのである。たしかに、ノーラン映画とは常に困難な旅路と冒険――つまりオデッセイ――の果てにかろうじて帰郷しようとする男たち(なぜか主体は決まって男性ばかりなのだが)の物語のバリエーションではあった。全編IMAX撮影の見果てぬ夢の実現は、ぜひ本家本丸のギリシャ神話で、というのは彼の悲願だった。
私はずっと『オデュッセイア』を作ってきた、と作家みずから豪語している以上、そこには作家自身が拘泥する核心、彼の精神をむしばんでやまぬオブセッションのようなものが潜行しているにちがいあるまい。それに対してあっさり答えるなら、ようするに男たちは「帰りたい」と主張してはばからぬ旅客でありながら、その実、帰りたくない、家出がこのまま続けばいい、とぐずついた先送りのマゾヒストの群れなのだ。帰宅困難と時間浪費への潜在的欲望。この欲望のありかを作家はロサンゼルス・タイムズ紙で「アールグレイ歴25年」という撮影現場でのカフェイン&カテキン中毒ぶりに託して吐露した。
主人公オデュッセウス(マット・デイモン)はトロイア戦争の大勝利の英雄であり、彼は自身が王をつとめるイタケ王国への凱旋をするために帰途の航海に出るが、これがなかなか終わらない。史実を議論しても無意味かもしれないが、それでも念のため地理を再確認しておくと、トロイアは現在のトルコ北西部に位置する古代都市である。ハインリヒ・シュリーマン著『古代への情熱』の読書感想文を高校の夏休み宿題で課された人は少なくないはずだが、あれはまさしくトロイアの遺跡発掘の手記だった。
戦地トロイアから故郷イタケまではエーゲ海を渡って目と鼻の先のはず。当時の船舶技術がどれほど心ぼそいものだったかはあずかり知らぬが、これはさまざまな妨害行為、迂回、滞留、サボタージュがなければ、いくらなんでも10年間も帰宅困難になるわけがないのである。そしてその妨害行為の犯人をいちいち顔見せさせるのがこの映画のボディだ。洞窟で暮らす1つ目巨人キュクロプス(ビル・アーウィン)、鉄兜の巨人兵軍団、魔女キルケ(サマンサ・モートン)、セイレーンの歌声、6頭の怪物スキュラの棲息する渦潮、海の女神カリュプソ(シャーリーズ・セロン)etc.。
帰りたい、帰りたいと口では言い募るホラ吹きによる寄り道漫遊記であることが判明してきた以上、旅程もおのずとホラ話になる。あの寒々しい森林に出現する鉄兜の巨人兵軍団、あれはなんだったのか? オデュッセウス率いるギリシャの精鋭たちは世界に冠たる最強軍団だったはずではないのか? そんな彼らをあっさり壊滅させるあの鉄兜軍団は、古代ギリシャ世界にタイムスリップで出現した、スカンジナビアあたりの中世の騎士団にしか見えない。エーゲ海を渡ってすぐのはずが、スカンジナビアたりで敗走したり、アイスランドあたりで死者の群れと面接したり、帰宅を遅延させるためのあらゆる用事が捏造される。
いっぽう、王の帰還を待つイタケ王宮では、宴会がもよおされている。あるじ不在の10年間、賓客きどりのならず者どもが連夜にわたり王宮に押しかけて、訪問者をもてなすべしというゼウスの掟に従って、しかたなく毎日が宴会となる。オデュッセウスの妃ペネロぺ(アン・ハサウェイ)の心痛は限界寸前だ。筆者のような退廃の輩としては、ピエール・クロソウスキーの連作小説『歓待の掟』を思い出し、歓待が宿す神の掟の可逆性へと考えを進めていきたいところだが、ノーランという映画作家は変に生真面目なところがあって、また、父権主義を後生大事にする保守的な側面もあるため、イタケ王宮の描写を歓待と忍耐の一本調子だけで押し通すノーランの姿勢は、パパ-ママ-ボクのファミリーメロドラマの退屈な反復に映ってしまう。
オールを漕ぐ大勢の男たちこそこの映画のメインイメージだが、船が正しい方角に向かっている実感がまったくない。帰りたいという求心力と、その裏返しの遠心力。相反する磁場にノーランという映画作家は囚われ続ける。故郷の王宮はゼウスの掟を言い訳に〈歓待〉が横行し、ここから遠ざかっておきたいという潜在的な帰宅恐怖症が〈非-歓待〉を次から次へと生み出して、IMAXの巨大スクリーンに休む間も与えずに映し出す。キュクロプスの洞窟も、鉄兜の巨人兵も、〈非-歓待〉の具現化だった。歓待するふりをして破滅させようと待ち構えるキルケやセイレーンもいる。または歓待して帰還を遅延させるカリュプソ。帰還/非-帰還。歓待/非-歓待。かくも長き不在。
























