「アニメの時代」を振り返る:2016~2026

新海誠と細田守の“作家性”はなぜ差が出た? オリジナルアニメ映画がSNS時代に直面する壁

細田作品のプロモーションと作家自身が推されること

「未来のミライ」予告

 この作風のわかりやすさの差は、プロモーションのしやすさに直結する。

 かつての映画プロモーションには「予告詐欺」的なものもあった。だが、SNS時代はそうした期待と現実の乖離は、批判の対象となりやすい。新海誠のプロモーションはそうした批判を受けることはあまりないが、細田守の場合はいささか本編と予告編とのギャップを感じることがある。

 例えば、『未来のミライ』は7月の夏休みシーズンに公開され、それに見合った「大冒険」を描く作品であると予告ではプッシュされたが、実際は4歳の男の子のわずかな成長を巧みなアニメーションと繊細な日常描写で描く作品で、文芸的な作品と言える(だからこそ賞レースでの評価が高い)。

『果てしなきスカーレット』©︎2025 スタジオ地図

 『果てしなきスカーレット』は、これまでとはビジュアルもガラリと変わり、超大作という貫録を演出するプロモーションで始まったが、途中から過去作のヒロインを登場させるという迷走をすることになった。これまでの作品と違うのか、連続性があるのか、観客はわからなくなり、興行成績は大きく沈み込むことになった。

 筆者の視点では、細田守は人の営みのこまやかさを描く文芸作品タイプで力を発揮すると思う。夏の超大作のような作品ではそのストロングポイントが生きない。スケールある大作を求められる商業的ポジションを担うことになったのは不幸なことかもしれない。

『果てしなきスカーレット』©︎2025 スタジオ地図

 アニメは予算がかかるものであり、秋の文芸作品のマーケットサイズで回収を図るのは構造的に難しい。しかし、だからといって作家性と乖離したプロモーションを重ねれば、信頼は損なわれる。この矛盾は、細田守個人の問題ではなく、商業的な要請と作家性のねじれであり、批評が弱い現状の構造的な軋轢である。

 そしてもうひとつ、SNS時代の作家には、プロモーションをめぐる別の課題がのしかかる。「推し活」という言葉が定着して久しい。アニメにおいて推される対象は、なんといってもキャラクターであり、だからこそ魅力あるキャラクターを多数有するIP作品の興行が好調なのだ。新海や細田のようなオリジナル映画で勝負するタイプは、ここで商業的なハンデを背負うことになる。このハンデを乗り越えるためにどうすべきか。端的には、作家本人が推されるしかない。

【トークノーカット】新海誠監督 最新作『すずめの戸締まり』製作発表会見/Makoto Shinkai's new film "Suzume no Tojimari" Press Conference

 その意味で、新海誠は自身の作品における最大の広告塔として機能している。公開後は国内だけで100を超える舞台挨拶をこなし、インタビューも膨大に受けるし、X(旧Twitter)のスペースで秘話を語るなど、ファンとの接点作りを欠かさない。しかも、それは本人が好き好んでやっていることを公言していて、「やらされている感」がない。

 一方、細田守は新海ほど露出は多くない。誰だって新海と比較されれば露出は劣るかもしれないが、Xアカウントも動かしていないし、舞台挨拶の数も少ない。『竜とそばかすの姫』封切り時には、日本におらずフランスのカンヌ国際映画祭に参加していた。コロナ禍で5月開催が7月にずれ込んだために仕方ない部分もあるが、一般のファンには観客よりも華やかな賞を優先したように見えたかもしれない。

映画祭は現状、どこまで機能しているか

『未来のミライ』©2018 スタジオ地図

 細田守は、近年の国内での一般的評価とは裏腹に、国際的なプレゼンスは高い。『未来のミライ』はカンヌ国際映画祭の監督週間に選ばれ、アカデミー賞にもノミネート。『竜とそばかすの姫』もカンヌプレミア部門に出品された。そんな過去の実績が後押しして、『果てしなきスカーレット』はベネチア国際映画祭に選ばれることになった。

 しかし、その賞レースでの実績が興行成績に結び付くことが、日本国内では今のところない(海外セールスの大きな後押しにはなっている)。

 これは細田に限らず、アヌシー国際アニメーション映画祭で絶大な人気を誇る湯浅政明にも言える。映画祭の権威と国内興行を接続する回路は、まだ確立されていない。

『すずめの戸締まり』©2022「すずめの戸締まり」製作委員会

 新海誠の場合は、『すずめの戸締まり』でベルリン国際映画祭のコンペティション部門に選出されたが、このタイミングは国内興行がひと段落した後であり、海外市場へ打って出る局面だったので、海外市場に対してある程度のインパクトを残した。

作家は誰のために「計画」するのか

 前回、本連載では、日本の商業アニメにおいては批評が弱く、ヒットが作家性の承認と結びつきやすいと書いた。今回、新海誠と細田守を並べて見えてくるのは、その条件のもとでどんな作家性が可視化されにくいかという問題である。

 新海誠の作家性は、視覚的インパクトの強さ、主題の共有しやすさ、監督本人の公共性を含めて、ユーザーによる「生成」主体の市場環境と相性が良かった。対して細田守の作家性は、作品を観続けること、比較すること、批評的に言語化されることを通じて見えてくる。

 だからこそ、2人の現在地の差を単なる個人の明暗として見るべきではない。そこには、2016年以後のアニメ映画市場が何を得意とし、何をまだ支えきれていないのかが表れている。批評も映画祭のエコシステムも十分に機能しない現状では、作家性のわかりやすさと「生成」との相性という偶然に、作家の命運が委ねられすぎている。

 この10年が作家に突きつけたのは、自らの作家性を、いまの環境のなかでどう可視化し、どう流通させるかという条件の変化である。オリジナル映画をめぐる苦境を考えるうえで、新海誠と細田守の明暗は、個人の資質以上に時代の構造を映している。

関連記事