「アニメの時代」を振り返る:2016~2026

【新連載】「アニメの時代」を振り返る ポストジブリ史観とアニメ映画にとっての“作家”とは

優秀な演出家と作家は違うのか

『君たちはどう生きるか』©2023 Studio Ghibli

 批評が有効に機能していない中、日本アニメの「作家」を改めて捉えなおしてみたい。

 前述した宮﨑駿の他、ヒットメイカーと作家性を両立させた存在として、庵野秀明と新海誠が挙げられる。この3人は、自身の作る独自の世界観とビジョンが大衆レベルで色濃く認知された存在といえる。そして、次点で細田守の名前も挙げられるだろう。オリジナル映画の実績がないゆえに無視されがちだが、富野由悠季には明らかな作家性があり、大衆性を持ち合わせている。もちろん、高畑勲もここに加えるべき存在だし、『この世界の片隅に』をヒットに導いた片渕須直の名も挙げるべきだろう。

 ただ、ヒットを要件としない従来の作家主義の観点からいえば、押井守、今敏、湯浅政明、原恵一、神山健治、山田尚子、幾原邦彦あたりは充分に作家としての資質を持った存在だ。幅広いジャンルを手掛け、原作ものでも固有のビジョンを示した出崎統も作家として再評価される必要がある。

 アニメ業界には優れた演出をする人物は他にもいるがリストアップが目的ではないのでこの辺にしておく(※3)。そうした人物は全て作家としての資質を持ち得ているのだろうか。作家と「すぐれた演出家」を分けるものはなんだろうか。

 端的にいえば、監督固有のビジョンを提示できているか、作品をまたいでもその人の作品であると強く刻印される何かがあるかどうかが、作家と上手い演出家をわけるものだろう。例えば『鬼滅の刃』の監督は作家か、という問いにも答えが出せそうな気がする。外崎春雄監督が、たいへん優秀な演出家であることには異論がないと思うが、固有のビジョンを示す作家といえるかどうかは、微妙なところだ。プロジェクト全体を仕切るufotable代表の近藤光氏の存在もさることながら、原作を厳格に遵守する作り方の中では、アニメ監督が固有のビジョンを示す余地はそれほど多くないように思われる。

IP主導作品の台頭と作家性

『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』©︎吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

 本連載で後に、巨大IP主導の映画作りが台頭してきたことに触れるが、そのことと個別の作家性を見つけにくくなったことは無関係ではないだろう。巨大IPシリーズにおいては、人気マンガが原作となることが多いが、漫画家こそが作家であると見なされる傾向が強い。『ONE PIECE』がアニメになっても実写になっても、多くの人々の関心は原作者・尾田栄一郎氏のビジョンがどこまで反映されているかだ。こういう環境では、それぞれの映像の作り手の作家性よりも、ひたすらに「上手い演出」と「豪華な映像(作画)」が必要とされることになる。

 押井守のように原作ものを扱いながら、独自の解釈と自己のビジョンを強烈に優先させる自由が許容されにくくなったのが、この10年の変化の一つだろう。人気となれば長期シリーズ化するわけで、例えば、第1期と第2期で監督が交代しても、同一のテイストを保たせるためには、むしろ監督が固有のビジョンを発揮しすぎないほうがいいかもしれない(※4)。近年、「作家性の終焉」のような雰囲気が漂っているのは、単純にオリジナル映画の集客が難しいだけでなく、こうした状況によるものだろうと筆者は考えている

この10年のアニメーション映画祭の増加の背景にある課題意識

 巨大IP作品の隆盛する時代にアニメ監督の作家性を育むためには、批評的にフックアップする仕組みがないと難しくなっていくと思われる。

 だからこそ、上述したインタビューで押井は新しく始まった映画祭が上手くいってほしいと語っている。この10数年、日本ではアニメーション映画祭の新設が続いている。2014年の新千歳空港国際アニメーション映画祭、2023年に新潟国際アニメーション映画祭、2025年に発足したあいち・なごやインターナショナル・アニメーション・フィルム・フェスティバル、2020年に終了した広島国際アニメーションフェスティバルの後を継いだひろしまアニメーションシーズン。そして、東京アニメアワードフェスティバルは2027年から「発展的解消」して生まれ変わることが宣言されている。

 こうしたアニメーション映画祭の増加は、作家をフックアップするシステムの模索といえるだろう。

 実写映画では映画祭が新たな才能を世に知らしめる仕組みとして機能している。ヨルゴス・ランティモスやドゥニ・ヴィルヌーヴ、ライアン・クーグラー、クリストファー・ノーランのような大作を撮る「ヒットメイカー+映画作家」のような存在も映画祭で発見された才能だ。

 アヌシー国際アニメーション映画祭のような海外映画祭も含めて、そうしたエコシステムを確立してほしいと筆者は思う。元々、アニメーションの世界において、作家性を発揮しうるのは短編のほうだという認識が強く、これまでのアニメーション映画祭は短編を中心に評価してきた歴史があるが、アヌシーもこの10年は長編映画を多く取り扱うようになってきており、実際に海外では強い作家性を発揮するアニメーション作家を輩出し始めている(『FLOW』のギンツ・ジルバロディスなど)。

 新海誠という作家が『君の名は。』で、ジブリ以外のアニメの商業的可能性を大きく押し広げた結果、IP主導の作品が席巻する道筋をも開き、かえって作家を見つけにくくなっていることは皮肉だ(この点については後に連載でより深く検証したい)。

 ヒットの前に作家を見つけフックアップする機能をいかに生み出せるか。日本アニメのさらなる多様性と持続可能性に向けて重要なテーマとして浮上したのが、この10年だったといえるだろう。

注釈
※1. http://animationbusiness.info/archives/2010
※2. https://realsound.jp/movie/2023/03/post-1282558.html
※3:原稿を書きながら思い浮かべた名前をあえて挙げておくと、『オッドタクシー』と『ホウセンカ』で気を吐いた木下麦、『音楽』と『ひゃくえむ。』でロトスコープを活かした作風で脚光を浴びた岩井澤健治あたりは作家としての資質を持ち得ていると筆者は考えている。その他、「上手い演出家」の枠を破って作家性を発揮せんと格闘している才能として、『クスノキの番人』の伊藤智彦、『映画大好きポンポさん』の平尾隆之や、『Sonny Boy』の夏目真悟、『さよならララ』が控える小出卓史、『ぼっち・ざ・ろっく!』『葬送のフリーレン』の斎藤圭一郎、『義妹生活』『死亡遊戯で飯を食う。』の上野壮大あたりの存在は個人的に気になっている。
※4:『葬送のフリーレン』は第2期で監督交代となったが、うまくテイストを引き継いでいる。一方『呪術廻戦』は第1期と第2期以降でかなり異なる雰囲気の作品となった。作風の変更がIPにとって好結果となるときもあれば、そうでないときもあるので、なかなか難しい問題である。

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