「アニメの時代」を振り返る:2016~2026
【新連載】「アニメの時代」を振り返る ポストジブリ史観とアニメ映画にとっての“作家”とは
本稿は、2016年以降のアニメ映画シーンをめぐる変化を、いくつかの視点で複合的に振り返ろうという連載だ。なぜ、2016年か。それはアニメが映画興行の柱と目され、アニメをめぐる環境を劇的に変えた年と記憶される可能性が高いからだ。1997年公開の『もののけ姫』や、2001年の『千と千尋の神隠し』が記録的な興行成績をたたき出したように、スタジオジブリ作品は日本映画の興行を支える重要なブランドであったが、それはあくまでジブリに限った話。他のアニメ作品にまで波及することはなかった。
やはり、その状況に変化をもたらしたのは、2016年、新海誠監督の『君の名は。』から始まったというのが適切な歴史認識であろうと思う。その前史として細田守監督の『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』の大ヒットがあったが、決定的にアニメの興行市場を押し広げたのは、やはり2016年であろう。この年の日本映画の興行収入のおよそ4割をアニメ作品が占めるに至った(※1)。
その節目の年から約10年が経過した。映画市場はすっかりアニメなしには成り立たなくなり、テレビ・配信の作品を含めて、日本アニメのプレゼンスは飛躍的に向上し、市場規模はもちろん、アニメ業界を取り巻く状況や周囲からの期待も、10年前とは雲泥の差となった。10年前と同じ感覚でアニメについて語れない状況だ。
実際、この10年でいろいろな変化があった。一つの記事でそれを総括することはできない。そういう課題意識からこの連載の企画が始まった。
この連載は、2016年からの10年の日本アニメの変化について、様々な角度から検証する。初回は『君の名は。』の新海誠監督の登場によって議論となった「ポスト宮﨑駿」というものの再検証と、それに付随して考える「日本の商業アニメにおける作家主義」とは何かについて考えてみたい。
人気マンガの映像化の大ヒットが続くなか、ここ数年はオリジナル映画の苦戦がささやかれ、「作家の時代の終焉」を語る人も少なくない。「作家」については、初回と第2回にわたって検証する。初回は「そもそも作家主義とは?」と掘り下げ、第2回ではこの10年を代表する2人の作家、新海誠と細田守の変遷を辿りたい。
ポスト宮﨑駿=ヒットメイカー+作家?
日本の商業アニメの歴史において最大の作家は、いうまでもなく宮﨑駿だ。今度こそ本当の引退と思わせた2013年の『風立ちぬ』公開後、今後誰が宮﨑駿の後釜に座るのかという議論が巻き起こった。それが「ポスト宮﨑駿」という単語に集約される。
この単語の意味するところは、曖昧というか、多義的だ。宮﨑駿のセンスを引き継いだ存在を指すのか、それとも宮﨑駿並みの興行力を持った映画監督のことを指すのか、シンプルにスタジオジブリ内の後継者を指すのか。
その言葉を使う人によって異なるのだろうが、なんとなく世間全体としては、「宮﨑駿のようにその名前だけで多くの観客を集めることができ、内容的にも優れたものを作れる存在」のことを指すことが多いと思われる。
簡単にいえば、商業的成功と文化・批評的成功を両立させられるアニメ監督のことを指すのだろう。
そもそも、この2つの両立は稀有なことだ。本来ヒットメイカーと作家というのはイコールではない。例えば、ハリウッドにおいて、マーティン・スコセッシは偉大な作家だが、ヒットメイカーだろうか。マイケル・ベイはヒットメイカーだが作家と目されていないだろう。スティーヴン・スピルバーグなら、両方を兼ね備えた存在といえる。そんな存在は世界中を見渡してもたくさんいるわけではないと思うが、「ポスト宮﨑駿」とはそういう存在を求める声だったといえるのではないか。
本来、映画作家とは何か
ヒットメイカーという存在はわかりやすい。一方、映画における作家は必ずしも意味が自明ではない。そもそも映画において作家とは何だろうか。
これはまず第一に批評的な概念だ。集団作業で制作される映画において、演出を担う監督を特権的な表現者とみなして、独自の文体を持った作家として称賛する動きが、1950年代のフランス映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で起こった(その後、その批評家たちは自らそれを実践するにいたる)。ヒット云々や世間一般の評価よりも、独自の表現様式を持ちうる特定の監督を作家と呼称することで、映画をめぐる言説を活性化させた。
前述の通り、「作家」が批評家の視点から生まれたものだとするならば、言い換えると、批評がなければ「作家」は生まれないともいえる。
この「批評」という視点が、日本の商業アニメを語るときのやっかいなポイントになる。押井守はアニメーションの世界には「批評がない」と語る。
押井:昔、宮さん(宮﨑駿)が「漫画の世界には批評がない」とよく言っていたけど、アニメーションも同じなんだよね。サブカルチャー全般と言っていいのかもしれないけれど、批評の場がない。「良かった」「悪かった」しかないんですよ。ゲームでも、神ゲーとクソゲーしかない。神とクソしかないって、それは批評がないのと一緒だから。(※2)
押井の発言は第1回新潟国際アニメーション映画祭の審査員長に就任した折に、映画祭をめぐる文脈の中で出てきたものだが、実写映画には映画祭など、新たな作家を発見する仕組みが確立されているのに対して、アニメにはそれがないと言っているのだ。
日本の商業アニメに批評が完全に欠如しているかについては議論の余地がある(もし皆無であれば、今日に押井守の名がここまで残っていることもないだろう)。しかし、実写映画と比べて批評の層が非常に薄いことは否めない。ゆえに、そもそも日本の商業アニメには、本来的な意味での作家が存在しにくい状況といえる。そのせいで、ヒットという世間的評判が作家性の発見と半ばイコール化しているのが日本の商業アニメの現状ではないか。