『エディントンへようこそ』が映し出す2020年の醜悪さ アリ・アスターによる忘却への抵抗

 アリ・アスターは、2010年代に躍進した映画スタジオ「A24」のブランド化に貢献した作家のひとりだ。『ヘレディタリー/継承』(2018年)と『ミッドサマー』(2019年)の成功によって、「A24」のロゴとともに、彼の名前はホラーの代名詞として世界中に浸透し、恐怖の象徴としてミーム化している。そのイメージはアメリカのみならず、日本の映画ファンの間でも共有されており、2025年8月には長編全3作のIMAXリバイバル上映も開催されたほどだ。そんな彼の新作『エディントンへようこそ』(2025年)。一体どんな物語なのかと、恐る恐る蓋を開けてみると、あまりに奇抜な設定に驚かされる。

 登場人物たちは、強迫的なまでにマスクの着脱を繰り返している。どうやら危険なウイルスが蔓延しているらしく、ひとたび公共空間で素顔を晒そうものなら、周囲の視線は敵意へと変わり、群衆は罪人を断罪しようと、手のひらサイズの光る板を一斉にかざし始める。おそらく、これがこの世界の処刑の儀式なのだろう。間違いない。これは想像を絶するディストピアSFなのだ──と、さすがにこんな謳い文句に騙される人はいないはず。ソーシャルメディアの普及と情報の氾濫が、歴史の忘却を加速させた現代にあっても、この悪夢のような光景がフィクションではなく、つい5年前の現実だったことを、多くの観客はまだ憶えているだろう。

 アリ・アスターの作家性を考えれば、「2020年の狂騒」を描くのは必然だったように思える。彼の作品に共通するモチーフは、家族(共同体)の暴力性、メンタルヘルスへの対処、運命論と裁きへの恐怖だ。彼はそのモチーフを悪魔崇拝、因習村、不条理寓話といった様々なホラージャンルの形式を通して描いてきたが、今回の『エディントンへようこそ』はソーシャルスリラーだ。ユダヤ文学的な不条理劇に接近したことで賛否が分かれ、興行的にも苦戦した前作『ボーはおそれている』(2023年)とは対照的に、『エディントンへようこそ』には突飛な設定や飛躍はなく、2020年の景色がそのまま映し出されている。つまり、5年前、私たちはアリ・アスターが描くホラー映画の登場人物として生きていたのだ。

 2020年5月下旬。COVID-19によるパンデミック、ジョージ・フロイド殺害を機に激化したブラック・ライヴズ・マター、目前に迫る大統領選、そして、アイデンティティ・ポリティクスと陰謀論が渦巻いていた頃。舞台はニューメキシコ州の架空の街エディントン。ネイティブアメリカンの土地と隣接するこの街は、AIデータセンターの誘致を巡って揺れている。主人公は、ホアキン・フェニックス演じる保安官のジョー。映画の序盤において、彼はこの小さな街で、時代遅れの正義を不器用ながらも懸命に全うしようとする人物に見える。

 ジョーがパトカーを走らせていると、スーパーマーケットの前で騒ぎが起きている。車を降りて確認すると、高齢の男性がマスクをしていないという理由だけで、群衆から責め立てられている。ジョーはあえて自らのマスクも外し、「こんな真似は間違っている」と言い放つ。「もし彼をマスク不着用で逮捕したいなら、エディントンの議会に掛け合って条例を制定させろ」。その姿はまるで、ジョン・フォード監督『若き日のリンカン』(1939年)のワンシーンのようだ。私刑にかけられそうな容疑者を前に、正式な法の裁きの必要性を説き、リンカーンは怒れる暴徒を鎮めた。高齢の男性はジョーに感謝し、彼は再びパトカーを走らせる。ここで終わればいいのだが、残念なことに、ジョーはスマートフォンという「銃」を抜いてしまい、事態は最悪の方向へと転がり始める。

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