『秒速5センチメートル』“時系列”が変更された美点とは? 原作に通じる“追憶”の表現
『夜明けのすべて』や『1ST KISS ファーストキス』での名演も記憶に新しい松村北斗の新たな代表作に名を連ねるであろう『秒速5センチメートル』は、新海誠の原作を大きく改変しつつもそのエッセンスは繊細に残していた。時系列順に「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」の3話を収録した短編集形式であった原作とは異なり、奥山由之の実写版では時系列が混在し、少年期・青年期・そして大人を演じる俳優たちがかわるがわるスクリーンにあらわれる。そんなかけはなれた時空の記憶を結びつけるのは、「思いだす」という行為によってである。
大人になった貴樹(松村北斗)は、会社の屋上でレディオヘッドを聴いている。彼の耳に流れこむ「Thinking About You」は種子島の日常風景のイメージとともに物語を貴樹の中学時代、鹿児島で澄田と過ごした時間へと移行させ、気づけば音楽を聴いているのは中学生の澄田(森七菜)になっている。時代を遡ったことで当然再生機器も変わり、澄田はいまとなっては巨大としか思えないCDプレイヤーからレディオヘッドを聴く。
この場面転換において貴樹が澄田のことを思いだしていたのかどうか、明言はされていない。しかしこの編集は、音楽のもつ記憶を呼びおこす力を強く印象づけているといえるだろう。特定の音楽の一音目を聴いた瞬間、その曲を聴きこんでいた当時の感覚や記憶が再現されることがある。わたし個人の思い出でいえば、星野源「恋」のあの陽気なイントロを聴くと、ダンスの課題曲とされたこの曲をうまく踊れない足の絡れを思いだす。貴樹もきっとそういう想起の波に呑まれていたであろうことは想像に難くない。
あるいはもうひとつの「思いだす」として、明里(高畑充希)が自室の段ボール箱から天文手帳を見つけるシークエンスから、貴樹にそれを貰った日の場面に接続される場面がある。強烈な思い出と感情に紐づけられたマテリアルとの再会が、意識を過去へと送りとばす。もはやそれは意識的に「思いだす」わけではなく、「思いだされてしまった」といったほうが正しいだろう。
「プルースト効果」との共通点
「プルースト効果」というものがある。特定の香りを嗅いだときに、その香りに紐づけられた記憶が甦ってくる現象のことをいう。これはフランスの小説家、マルセル・プルーストによる『失われた時を求めて』という大長編のなかで、紅茶に落ちたマドレーヌを掬って食べた瞬間、その感覚がきっかけとなって昔の記憶が甦ってきた場面によるものである。プルーストは小説のなかでも幾度となく「記憶」や「思いだす」ことについて思索を巡らせる。
『失われた時を求めて』にある「心の間歇」という一節は、特段「喪失」と「記憶」について考え抜かれたテクストである。「心の間歇」とは本来不整脈を意味するが、プルーストはそれを精神に適用し「心の現象の(断続的な)不規則性」として用いている。心は不規則に、なにかをきっかけに思いだしてしまう。思いださずにはいられないのが心というものだ。ここでもプルーストは「プルースト効果」的な想起を用いている。
主人公の「私」は靴を脱ごうとしてハーフブーツのボタンに手をかけた瞬間、「私の胸はなにか得体の知れない神々しいものに満たされてふくらみ、身体は嗚咽に揺さぶられ、目からは涙がとめどなく流れ」(p.351)るという瞬間的な情念の横溢によって、「私」は祖母の埋葬から一年の時を経てようやく「祖母は死んだ」ことを認めるに至る。そうして思いだされるのは、「私」が生前の祖母に発した棘のある言葉を受けて、引き攣らせた祖母の顔だった。もう謝れなくなってしまったいま、その言葉に引き裂かれるのは「私」自身だった。故人に喰らわせた苦痛を思うと「私」の心が痛むのだ。
私が祖母を本当に想い出すことができるのは、ひとえに苦痛を通じてであると悟り、そうであれば祖母の記憶を私のうちにつなぎとめている苦痛の釘がもっと私のなかに食いこめばいいとさえ思った。私は、その苦痛をことさら優しいものにしようとも、その苦痛を美化しようとも思わなかった。(p.358)
「思いだす」ことは甘美なだけではない。「思いだす」ことはすでに為された行為、発された言葉が取り消し不可能であることを確認する作業でもある。いくつもの言うべきではなかった言葉、言わなければいけなかったのに言えなかった言葉に出会うことだろう。そのたびに「思いだす」人は「苦痛の釘」を皮膚に打ちこまれる。岩舟駅で電車に乗りこんだ貴樹の言えなかった言葉は、「苦痛の釘」となって貴樹にめり込みつづける。郷愁をあらわす「ノスタルジア」という言葉の語源が「nostos」帰郷+「algos」心の痛みであることからもあきらかなように、なつかしさは痛いものだ。その痛みとどう向き合うのか、「苦痛の釘」をどう対処するのか——『秒速5センチメートル』はその問いに応答する2時間でもある。