『べらぼう』“一行の史実”を類稀なドラマにする森下佳子の脚本 “穿ちの精神”が蔦重の要に
天明3年(1783年)9月、34歳になった蔦屋重三郎は、日本橋通油町(現在の日本橋大伝馬町あたり)に進出、名実ともに江戸の一流書肆の仲間入りを果たす。その略歴を辿ってゆけば、たった一行で片づけられるような出来事に、これほどまでの「意味性」と「ドラマ性」を見出すとは……。
脚本家・森下佳子の手腕に、まったくもって恐れ入った。間違いなく、これは前半戦のクライマックスである。NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第24回「げにつれなきは日本橋」は、廃業を決めた日本橋の書店・丸屋の跡地を手に入れるべく、蔦重(横浜流星)のみならず、吉原の「忘八」親父たちが、あれこれ画策すると同時に、蔦重と丸屋の女将・てい(橋本愛)が急接近(そして急反発)する回だった。
黄表紙の隆盛と狂歌ブームによって「江戸一の利者(ききもの)」となった蔦重のもとに、近頃しきりと「日本橋進出」の声が上がってくる。たしかに、江戸の外――全国に蔦屋の商品を行き渡らせるためには、西村屋や鶴屋と同じく日本橋に店を構えることが必要だ。けれども歌麿(染谷将太)は言う。
「蔦重は吉原にいるから、ちょいとかっこよしなんだよ。江戸一の利者が、江戸の外れの吉原にいる。それが粋に見えるんだよ」
しかし、吉原を散々利用し楽しみながら、それでも吉原に対する偏見を持ち続ける市中の人々と、彼らの吉原者に対する非情な仕打ちを目の当たりにした蔦重は、日本橋進出に対する自らの決意を新たにする。吉原に育ててもらった拾い子である自分が日本橋に店を出すことは、単なる「成功」の証しではなく、吉原の存在を世に知らしめ、一目置かせることに繋がるのだと(第23回「我こそは江戸一利者なり」)。
かくして、吉原の「忘八」親父たちの協力を取り付けた蔦重は、鶴屋の向かいに店を構えながらも廃業した書店・丸屋に狙いを定める。しかし、日本橋界隈を取り仕切る鶴屋喜右衛門(風間俊介)の画策もあって、事態は容易には進まない。どうにかして、丸屋の女将・ていを口説き落とす術はないものか。思いあぐねる蔦重は、ていの馴染みだという寺を訪れる。そこには、店の売り物であった往来物や子ども用の赤本を寺の和尚に託す、ていの姿があった。
「私にはもう、この本を屑屋に出すしか手はありません。しかし、屑屋に出せば、本は本ではなく、ただの紙屑と成り果てます。それは本の身となれば、まこと不本意にございましょう。けれど、手習の子らの手に渡れば、本としてのつとめを立派に果たすことができます。子らに文字や知恵を与え、その一生が豊かで喜びに満ちたものとなれば、本も本望、本屋も本懐というものであります」
そんなていの言葉を物陰で聞いていた蔦重の脳裏に、かつて自分に「耕書堂」という屋号を与えてくれた平賀源内(安田顕)の言葉がよみがえる。
「お前さんはさ、書をもって世を耕し、この日の本をもっともっと豊かな国にすんだよ」
そして、蔦重はひとりつぶやくのだった。「同じじゃねえかよ……」と。自分はなぜ、書物に魅せられ、それを自ら出版するに至ったのか。その思いは、「本のあるなしで、一生は天と地ほど変わる」が口癖だったという父親に育てられた、ていと同じではないのか。それがていと、「一緒に本屋をやりませんか?」から、即座に「俺と一緒になるってなぁどうです?」に切り替わるところが、良くも悪くも実に蔦重らしいのだが、その申し出は案の定、「どんなに落ちぶれようと、吉原者と一緒になるなどありえません!」と、ていに激しく拒絶されるのだった。