『国宝』が描いた“美”への倒錯的な狂気 “喜久雄”吉沢亮の謎めいたラストシーンの描写を考察

 だが、こういった厳しい経験が何かを生むといった意識が、長年「歌舞伎」の歴史をかたちづくり、結果的に成果を生み出してもきたのは事実であろう。数度映画化された『残菊物語』の原作小説でも示されるように、名門の役者が実際にドサ回りで厳しい経験をするからこそ得られる気づきというのも、実際にあるのだろう。観客もまた、虐待的な指導を含め辛い経験をくぐり抜けた役者を評価することで、ある意味でそういった価値観を共有し黙認しながら、システムの共犯関係として機能していたといえるのではないだろうか。

 また、『残菊物語』で苦楽をともにしてきたパートナーが、歌舞伎役者の成功とともに、身分の違いを考えて“身を引く”という決断が「女の道」として表現されている箇所もまた、本作で喜久雄を取り巻く女性たちの姿勢を説明している部分である。全くの時代錯誤であるが、このような男性にとって都合の良い価値観と、犠牲になる存在もまた、「芸道」を構成する一部だったといえるのだ。

 そしてもう一つの「通過儀礼」が、人間性を捨てるという意味での“人でなし”になるということだろう。喜久雄が衆人環視のなかで、妾である芸者との間に生まれた我が子が「お父ちゃん!」と呼びかける声を無視するといった場面は、溝口健二監督版の『残菊物語』(1939年)における、パートナーが死にゆくなか、人々に襲名のお披露目をするといった、残酷なラストシーンを思い出すものだ。

 とはいえ、本作の当該場面は、無神経な「女遊び」の果てに起こる悲劇なのだから、より“人でなし”の度合いは強い。「女遊びは芸の肥やし」などと言われてきたように、歴史のなかで多くの歌舞伎役者がおこなってきた。この非人間的な振る舞いは、表向けに制度化こそされないものの、慣習的に正当化されてきた部分がある。作家・菊池寛の小説『藤十郎の恋』でも、ある女性の尊厳を貶め、死に追いやることが芸を上達させるきっかけとなったことが描かれる。「芸のためには、一人や二人の女の命は」という、主人公の悪魔のような述懐は、まさに“非人間性によって人間を超える”というカルト的な概念が「芸道」に備わってきたことを暗示したものだ。

 死を前にし、床のなかで喜久雄を呼んだ万菊は、喜久雄が泥水をすすり“汚れきった”ことで「頃合いや良し」と、自分の魂を継承しようとする。それは、仏教の経典にある“泥中の蓮”が示す、やはり宗教的な精神的境地であって、芸以外の全てを積極的に犠牲にして非人間的存在になりながら「綺麗」なものを追い求める地獄を生きることが、歌舞伎役者の女形であるという、一つの哲学を教えているということだ。

 こういった考え方が真実なのか否かといえば、おそらく嘘だろうし、男性優位的で自分本位的な考えに過ぎない、閉じられた業界によくあるカルト的な因習を下敷きにした概念であることも確かだろう。強調しておきたいが、筆者はこのような考え方には、はっきりと反対の立場をとる。ただ一方で、例えば敬虔な画家が宗教画を描くときのように、自分の信じる最高の存在を表現するために苦心を重ね、その画家の才覚や限界をも超えた境地で、圧倒的な表現を可能にする場合もある。

 つまり、“ないかもしれないもの”であっても、それを狂信的に信じきることで、本来の限界を突破するということである。この考えは、本作で「悪魔との取り引き」という表現でも登場する。不道徳であり倫理に外れてもいるが、そこに積極的に身を投じてこそ芸の本質に近づけるという概念である。それを賞賛する歌舞伎の観客が、同じ共同幻想のなかで、そういったカルト性による方向からの芸の倒錯的な進化を、必要悪として維持させてきた面もある。

 そういった概念を注ぎ込む「器」として機能するのにうってつけだったのが、「空っぽ」と言われ続けてきた喜久雄ということになるだろう。空っぽだからこそ、万菊同様に“全身歌舞伎役者”、つまりは「国宝」になれるというロジックである。

 ついに「国宝」となった喜久雄は、インタビューの席で、“ある景色”を追い求めている、しかしそれをうまく表現できないということを、インタビュイーに伝える。そしてラストシーンで彼は、舞台上において、待ち望んでいた景色を見ることとなるのだ。

 さて、その“ある景色”とは何だったのだろうか。それは喜久雄が、その言葉を発したすぐ後で、高級ホテルの日本庭園の景色をじっと眺めている描写からも類推することができる。彼は子どもの頃に、珍しく長崎に降る大粒の雪のなか、中庭で刺青の入った肌をむき出しにした父親(永瀬正敏)が銃弾に倒れ、鮮血が飛び散るという、凄惨な光景を目の当たりにしているのである。

 自分の親が殺される瞬間を見るという強烈な体験は、普通なら悲劇として語られるべきだろう。しかし喜久雄は、その姿を無意識下において「綺麗」だと思ってしまったのではないか。そんな“感性”を、世間に向けて披露するわけにもいかないだろう。そこまで極端になってしまえば、ともに共同幻想のなかにいる観客や、ほとんどの同業者もついていけないはずである。だからこそ、あの体験が綺麗だと素直に思えるようになってしまった、非人間的な「国宝」である喜久雄は、誰もいない場所にひとり映し出されるのである。

 「国宝」に迫る場所にいた俊介もまた、不思議な幻影を虚空に見ている。俊介と喜久雄は、舞台上で何者かが上から見つめているといった話をする。おそらく俊介を見つめていた者とは、自分の家の歴代の役者たちの亡霊であったのではないだろうか。それらの存在が俊介を鼓舞し、また追いつめてもいたはずなのである。その亡霊への怯えと自信こそが、「血」という共同幻想の正体であったのではないだろうか。そして喜久雄が、そんなおそろしいものに対抗するために選んだのが、美への倒錯的な狂気への耽溺だったのだと考えられる。

 では、本作で描かれる、美を追い求める非人間的な狂気が、賞賛の意味で描かれているのかといえば、そんなことはないだろう。そうやって得られる境地があったのだとしても、その世界は、誰もいない孤独な場所なのである。そこは、人間としての幸せもなく、絶えず罪悪感に責め苛まれる煉獄でもあるだろう。しかし同時に、もしかしたらそんな場所があるかもしれないというのは、美しい虚構であり、倒錯したロマンともいえるのではないだろうか。本作『国宝』は、この孤独な場所の存在を、一つのファンタジーとして映し出した映画なのである。

■公開情報
『国宝』
全国公開中
出演:吉沢亮、横浜流星、高畑充希、寺島しのぶ、森七菜、三浦貴大、見上愛、黒川想矢、越山敬達、永瀬正敏、嶋田久作 宮澤エマ、田中泯、渡辺謙
監督:李相日
脚本:奥寺佐渡子
原作:『国宝』吉田修一著(朝日文庫/朝日新聞出版刊)
製作幹事:アニプレックス 、MYRIAGON STUDIO
制作プロダクション:クレデウス
配給:東宝
©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
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