中国古典文学の名著が映画に 『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』が引き出した新たな魅力
中国の「四大名著」として、『西遊記』、『水滸伝』、『三国志演義』と並ぶ、『紅楼夢』。没落した貴族の曹雪芹によって書かれた、この物語は、「中国の『源氏物語』、『ロミオとジュリエット』」と例えられるように、中国文化の多様性を示す、貴族社会の“洗練”された“女性的”な顔を持っている。
その内容には、どこまでも考察できる深みや、読むたびに新しい発見が生まれる広がりが存在し、世界の文学作品のなかでも際立って、ハマると抜け出せない要素が詰まっているといえる。その映画版となる『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』は、116分にその長大な内容をギュギュッと圧縮した一作である。
もちろん、この上映時間で『紅楼夢』という文学の魅力を全て表現することは難しい。しかし、その真髄部分が描かれた本作『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』の厳選されたエピソードの数々を観ることで、長い物語がいったい何を描いているのかを、絢爛豪華で流麗な映像を楽しみながら理解できるのだ。これが、映画版ならではの強みである。
ここでは、そんな本作の内容や、映画を一度観ただけでは理解しづらい部分を解説し、物語の感動を深めるとともに、現在の視点だからこそ感じられる『紅楼夢』の新しい魅力を読み取っていきたい。
本作の主な舞台となるのは、政府直轄の都市「順天府」の一部にある、巨大な邸宅や「大観園」という庭園がある、「栄国府」と称される貴族の自治領だ。そこでは、賈(か)家という政府の高官の氏族と、身を寄せる親族、管理者や奉公人、出入りの業者などによって、一つの社会が成立している。壮大なコミュニティのため、親族同士での結婚や恋愛も珍しくない。
本作の主人公・賈宝玉(か・ほうぎょく)は、賈家の当主・賈政と王夫人の間に生まれた、美しい容姿の次男。家名と家の繁栄のためにエリート役人になる条件である難関試験・科挙の勉強に精を出さなければいけない立場だが、彼は押し付けられる勉強が嫌いだ。詩や音楽、ファッション、香やお茶など、男性社会では役に立たないと考えられていた、女性的な教養、文化の方に親しんでいた。
しかし、賈家の精神的支柱である賈母・史太君は風流を愛する文化人で、宝玉を甘やかしかわいがっていた。宝玉はその庇護のもとで人々から王子様のように扱われ、気ままな生活を続けている。本作では彼が賈家の蔵書に親しむ場面があるが、そこで読む書の多くが科挙とは関係のないものであるからこそ、宝玉はその豊かな文化的世界に没頭することになる。そして、楽園のような「大観園」で詩作をする少女たちと一緒に過ごしたり、恋愛をしさえするのだ。
現代の日本でいえば宝玉は、東大の試験や司法試験への合格が期待されながら、教科書や参考書に集中して机にかじりつくタイプではないということ。女子と遊んだり、バンド活動をしたり、小説やファッション誌を読んで日々を楽しんでいるような青年なのである。
宝玉は栄国府で数々の女性と出会い、とくに父方の従妹で幼なじみの林黛玉(りん・たいぎょく)、宝玉の母方の従姉である薛宝釵(せつ・ほうさ)と恋をするなど、天性の“モテ男”であるが、それでは「プレイボーイ」なのかといえば、そうとも言い切れない。彼の“モテ”は恋愛術によるものでなく、女性的な文化に親しんだことで、女子の心理や考え方を理解して寄り添うことができる、自然な所作や態度からくるものなのだ。
そういった意味において、賈宝玉というキャラクターは、現代でこそ再評価される性質を持っているといえる。女性に寄り添う共感性、“男らしさ”という枠に縛られない感受性、男性社会の秩序に染まらない文化的基盤を持った彼は、ジェンダーによる差別が問題と考えられるようになってきた現代社会において、一つの進歩的男性像といえるのかもしれない。
そんな宝玉と恋愛関係になる林黛玉や薛宝釵は、詩作の才能に優れた文学少女たちだ。そして、卓越した感性に惹かれる宝玉だからこそ、彼女たちの才能を理解し、評価できるのだ。とくに林黛玉の詩のセンスはずば抜けていて、宝玉と互いに心の奥底で響き合う、他には代え難い存在になっていくのである。この賈宝玉と林黛玉の精神の結びつきとラブロマンスこそが、『紅楼夢』の本筋だといえるのだ。
約390名というおびただしい数の人物が登場する『紅楼夢』は、よく最初に読むときに混乱するといわれる。だが極論をいえば、賈宝玉と林黛玉、そして三角関係となる薛宝釵、それから宝玉の近親者を最低限把握すれば、本筋の内容は理解できるのである。