『青春ブタ野郎』はなぜファンを惹きつけ続けるのか? “ラノベ文体の映像化”を分析

『青春ブタ野郎』は半透明な身体の夢を見ない

 『青春ブタ野郎』シリーズの主人公・梓川咲太は、「思春期症候群」と呼ばれる現象に基づく「傷」を抱えている。彼の身体とそこに刻まれた傷は、場合によって血すらも流すリアリズムに即した描写である一方、前触れなく傷つき、また突如として回復する荒唐無稽なものであるという意味では、極めてフィクショナルだ。

 この両義性は本シリーズの、あるいはメディアとしてのライトノベルの達成の比喩とみなせるだろう。

 ライトノベルという媒体は、「キャラクター小説」と呼ばれることもあるようにキャラクターが中心となることによって成立している。柄谷行人が自然主義文学の文章を「透明な言葉」と評したことになぞらえ、東浩紀はライトノベルの文章を「半透明な言葉」と呼んだ。

 半透明な言葉とは、「不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする矛盾を抱えた、漫画表現のそのまた『模倣』として作られた言語である」(※1)と東は論じる(付言すれば、マンガは非リアリズム的に描かれているのにもかかわらず、キャラクターが傷つき血を流すというリアリズムが同居しており、それを「まんが・アニメ的リアリズム」と呼ぶ先行の議論がある)。それによってライトノベルの文章は、あたりまえの風景を描写していたとしてもどこか嘘くさく、逆に幻想的な世界を描いたとしてもどこか「リアル」に感じられてしまうのだという。つまりライトノベルの言葉は、そうした矛盾したキャラクターを描くものとして在るということだ。

 もう少しこの議論について整理してみると、同書によればこの「半透明な言葉」が「セカイ系」の想像力を支えているという。セカイ系的な「日常と非日常を直結する」物語展開は、このハイブリッドな文体によって支えられている(※2)。こうしたライトノベルの特徴を存分に発揮している作品は枚挙にいとまがないが、その最たる例の一つとして『涼宮ハルヒ』シリーズ(以下、『ハルヒ』)が挙げられる。本作はまさに主人公・キョンが望むような「日常」と、ハルヒが望み(そして実際実現してしまうような)「非日常」を文体によって連続させている。ハルヒの深層心理がそのまま世界を変質させるのは、まさに「日常」と「非日常」が違和感なく接続される文体の上で、キャラクターが中心となる(=キャラクターが物語に優先される)ことで初めて成立する。

 ところで、批評家の宇野常寛は「日常」への回帰を志向していると評価しつつも、『ハルヒ』を「セカイ系」的な想像力に含めて「弱めな肉食恐竜たちのマチズモ=『自分より弱い女の子への所有欲』を、彼らの肥大したプライドを傷つけないように満たすため極めて周到な構造が提供されている」(※3)として批判を向けている。このとき宇野が絶えず指摘しているのは、「セカイ系」に含まれるコンテンツが、「少女を所有する(=主体性を奪う)」構造を、男性が主体性を持っていることを隠蔽しながら温存していることだ。「セカイ系」的なコンテンツは、主人公=読者のマチズモを隠蔽しながら、少女の主体性を奪ってしまう。

 ここまでの話を整理すると、一見すれば「セカイ系」を成立させるライトノベルというメディアもまた、宇野の批判の範疇に含まれている。「半透明な言葉」が成立させたものは、単なるマチズモの隠蔽と温存にすぎないのだ、と。しかし近年、北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』(太田出版、2024)に顕著なとおり「セカイ系」の定義の見直しや再評価が行われている。そのため宇野のこうした批判も再検討する必要があるだろう。筆者の考えでは、宇野の「セカイ系」に対する批判は、ライトノベルの「半透明な言葉」の一部分だけを照らしているにすぎない。

 この「半透明な言葉」が持つ残りの部分の可能性を、『青春ブタ野郎』シリーズ(以下、『青ブタ』)は『ハルヒ』を反転させたかたちで明示している。本作はライトノベルというメディアが持つ可能性を表出させることで「セカイ系」の行き着いた問題点を乗り越えようと試みているだけでなく、その達成をメディアを越えて実現しようとする作品だと筆者は考えている。

 『青ブタ』において常に顕著なのは、主人公・咲太が(マチズモが隠蔽されず)主体的に選択し続けることだ。彼は常に自身の選択で作中の特殊な状況、心の葛藤が身体にそのまま表出する「思春期症候群」に陥った少女たちを救おうとする。このとき彼が行うのは思春期症候群を治す手伝いであり、彼が自ら彼女たちの問題に切り込んでゆくことで物語は進行してゆく。

 他方でそれは、現実の土地(この場合は鎌倉だ)に根づいて行われる。作中に登場する場所が実際の場所であることに注目したい。すなわち『青ブタ』は、前提として「半透明な言葉」を用いることによって「日常(=現実的な描写)」と「非日常(=思春期症候群)」を違和感なく接続させるライトノベルというメディアの特性を極めて自覚的に取り入れることで成立している。

 もちろんこのことは、一見すればマチズモの隠蔽をやめただけで咲太が主体的に少女を所有しようとしているように思えるかもしれない。事実『青ブタ』はしばしば思春期症候群にまつわる問題を解決する過程で、しばしば対象の少女とのラブコメが展開される。しかし重要なのは、そのとき咲太が少女たちを振ることによってラブコメを中断させることだ。このデタッチメントによって咲太は主体性を持ちながらも、少女の主体性を回復させてゆく。

 では、唯一交際関係になる麻衣についてはどうだろうか。これも二つの意味で「所有」からは脱しているように思われる。それはまず第一に、作品を見ればわかるとおり咲太が麻衣との関係のなかでしばしば下位に置かれるからだ。咲太は麻衣を所有しようと試みても、絶えず麻衣からの拒絶を食らう(無論それは、一定程度の信頼に基づいて行われている)。そして第二の理由は、咲太と読者が常に分離していることだ。宇野の批判は、主人公の視点が読者のそれと一致することで、読者側もマチズモを隠蔽し、温存していることが前提としてある。筆者の見立てでは、本作はその構造に陥ってしまうことを回避している。そしてそれは、まさにライトノベルの特性によって可能になっているように思われるのだ。

 先に見たように、ライトノベルは「半透明な言葉」によって描写され、それは「まんが・アニメ的リアリズム」に立脚しているのだった。それは「まんが・アニメ的リアリズム」によって描写されるキャラクターの身体が、「不透明な身体」であるということも可能ではないだろうか。

関連記事