アカデミー賞3冠『ブルータリスト』は驚くべき一作 映画製作の常識を覆す作品づくりに迫る
書斎の圧倒的な仕事が認められたラースローは、ハリソンの大きな信頼を得て、彼の目指す巨大事業である、丘の上の文化施設「ザ・インスティチュート」の設計を手がけることとなる。ここで荒々しいコンクリート打ちっぱなしの「ブルータリズム」建築を採用するのは、ラースローの野心と挑戦心ゆえである。この大きな仕事に打ち込む日々のなか、妻のエルジェーベトと姪のジョーフィアもペンシルべニアへと到着し、彼の人生は、いまや取り戻されようとしていた。しかし、この建築へのラースローの情熱はあまりに強く、計画をそのまま反映するために自分の報酬すら使用するのであった。
それはコーベット監督も同じで、彼はビジネスは度外視して、製作費の多くが映画そのものの視覚へと反映するように努めたのだという。建築やインテリアが大きな意味を持つ本作において、“もう一人の監督”といえるプロダクションデザイナー(美術監督)のジュディ・ベッカーおよび美術チームも映画や作品への愛から、十分な報酬は得られていないことを明かしている。また、本作のさまざまなシーンがハンガリーで撮られたことも、製作費を抑える節約に役立っているという。(※)
もちろん、これは諸手を挙げて賞賛することではないかもしれない。“夢”を追う仕事をしているとはいえ、映画産業に従事する者たちもまた労働者であり、妥当な報酬を得るべきだからである。とはいえ、芸術のために自分たちの経済的利益すら放り出そうとする情熱は、かつてフランシス・フォード・コッポラ監督が、巨額の私財を投じてまで超大作『地獄の黙示録』(1979年)を撮影したり、船の山越えを描くために、実際に客船を山の上に建造した『フィツカラルド』(1982年)に似た、魅惑的でおそろしい仕事を思い起こさせるものがある。そういった規格外のものを生み出そうとする、ものづくりへの一種の狂気こそ、いまのアメリカ映画が失っているものであることも事実。本作における失われた時代への憧憬は、スタイルのみならず、つくり手の精神にも反映しているのである。
ジュディ・ベッカーが奉仕した事実から分かるように、本作の試みが、美術の面でやりがいあるものであったことも確かだろう。モダニズム、ミッドセンチュリー、ブルータリズム。これらの時代の優れたデザイナー、建築家たちの仕事をマッシュアップして再現する仕事は、とくにいま、これらの意匠が見直されている時期とも呼応し、非常に魅力的なものだったと想像する。その楽しさが、画面から横溢しているように感じられるのである。
一方で、シリアスなのは物語の側である。アメリカで人生を取り戻したかに見えるラースローたちだったが、多くの身内や同胞がホロコーストの犠牲になったことはもちろん、生存したとしても迫害によって受けた傷痕の深さが、作品の焦点となる。エルジェーベトは脚が弱り自力で歩けない状態となり、ジョーフィアはほとんど言葉を話さないようになっていたのだ。またラースローは妻との性的な関係をなかなか取り戻せず、ヘロインに依存している。エルジェーベトがベッドで「私たちが傷つけられたのは肉体だけ」と夫に語りかけるように、過酷な虐待を受けたことが作中で示唆されている。
では、新生活がラースローたちの慰めになったのかというと、そこには疑問符がつく。ユダヤ系アメリカ人の親切に恵まれながらも、一方で従兄弟の妻からひどい仕打ちを受けたり、ハリソンやその息子ハリーの「マイクロアグレッション(無自覚な差別)」などを浴びるように、新天地でも彼らは偏見のなかにあるのである。この意味においてアメリカという土地は、三人が本当に心休める安住の場所ではなかったといえるだろう。
絶えず陰鬱さを背負って見えるラースローが、珍しくいきいきとしだすのは、大理石の採掘のためイタリアへと出張したときである。昔馴染みの顔に会い、ファシズムに抵抗したという友人の話を聞くことで、ラースローは久しぶりに心からリラックスし、“自分”を取り戻し、自然と踊り出すのだ。しかし、その楽しい姿を眺めるハリソンの心境には複雑なものがあった。そして、酒とドラッグで酔い潰れたラースローに、彼は性的な加害をおこなうのである。
本作の核心に近づくため、ハリソンという人物の内面を考察しておきたい。彼は地元の名士として知られ、ときに尊大で力を誇示しがちな人物でもある。そして多数の書物を買い漁っているように、知識欲が旺盛な一面がある。また、おそらくはゲイかバイセクシャルの性的指向があるが、当時のアメリカではそれを公表することは立場的にも難しく、孤独感をおぼえていたと考えられる。偶然出会ったラースローは、彼にしてみれば真に知的で才能のある、自分が理想とする魅力的な人物に映ったのだろう。
だが一方で、ハリソンは普段紳士的に振る舞いながらも、アフリカ系の作業員が邸宅の敷地にいることを嫌悪するなど、人種差別的な面も見せている。そして、ラースローたちユダヤ系のことも、ある程度見下していたとも考えられる。ラースローの話す英語を「靴みがきのようだ」と表現したり、息子のハリーがジョーフィアに失礼な態度をとるのも黙認している。つまりハリソンは、ラースローに激しく憧れながら同時に蔑視している状況にあったといえるのだ。
そんなハリソンがラースローに対し、プライドが保てていた理由というのが、彼の生活の面倒をみるパトロンであるという点だった。恭順を示す態度のラースローを“従える”ことで、彼はラースロー以上の存在だと思うことができたのだろう。しかし、イタリアで本来の奔放さを取り戻したラースローを見たハリソンは動揺をおぼえる。だから、“肉体を征服する”という意図を持った行為によって、自身のプライドを保とうとしたのである。このように征服欲を満たすことが、一部の性加害事件の本質であるという考え方に、本作は沿っているといえるのだ。
この征服欲による加害を、国家規模、世界規模でおこなっていたのが、ヒトラーでありナチスドイツであるといえる。ヒトラーもかつては芸術家を志し、夢破れた人物だ。彼は軍事力により芸術の国フランスを占領し、新たな芸術運動を「退廃芸術」などと呼んで愚弄した。この事実を踏まえると、ラースローや、ひたすら資本主義的な記事を新聞社で書いていたエルジェーベトたちは、アメリカという国に横たわる尊大さや資本主義の力のなかに、ナチズムと同種のものを見たと考えられるのである。それを最も恐怖として感じていたのが、ハリーの好奇の目や征服欲などにさらされた経験を経て、イスラエルに移住することを最初に決めたジョーフィアなのだろう。