『まどマギ』以降の魔法少女たちは“正義”をどう描いた? 2010年代から『マジルミエ』まで

 アニメにおけるいわゆる「魔法少女もの」の歴史は長い。もちろんしばしば指摘されるように、個々の時代や作品ごとに「魔法少女もの」には細かな違いがある。しかし総体として1966年に放送された『魔法使いサリー』に始まるとされるこのジャンルは、長い時間をかけて形を変えながら現在まで一定の地位を保ち続けていると言える。

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』特報第2弾:SIDEほむら

 この歴史の中における大きな転換点に、『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、『まどマギ』)が数えられることは論を俟たない。『まどマギ』がそうした立ち位置にいる要因の一つにはおそらく、魔法少女を取り巻く“システムそのもの”を対抗すべき「悪」として設定したことが挙げられる。周知の通り、本作で主人公のまどかは最終的に魔法少女が魔女になってしまうというシステムを代替する「円環の理」となる。もちろん、「キュウべえ」は悪役の象徴として度々作中で姿を現すが、彼もまた一つの表象にすぎず、彼を倒したところで物語は完結しない。まどかが対抗するのはあくまで「システム」という強大な敵なのであり、そこに旧来の魔法少女ものからのアップデートがあった。

 その後2010年代のとりわけ深夜アニメにおいて、魔法少女ものは『まどマギ』の影響下にあったと言ってよい。個々の作風にグラデーションがあるにせよ、魔法少女たちに対する明確な「悪役」を描くことが徐々に難しくなっていったという共通認識は存在していただろう。魔法少女を取り巻くシステムに目を向けた、いわば「メタ・魔法少女もの」として成立した『まどマギ』以降、魔法少女たちは常に魔法少女である理由を問われている。『結城友奈は勇者である』が『まどマギ』の影響を受けていることは言うまでもないが、とりわけ目を引くのは何らかのシステム下で魔法少女同士が戦うような、いわゆる「バトルロワイヤル」的作品である。例えば『魔法少女サイト』や、『魔法少女育成計画』では、魔法少女同士がなんらかの目的を達成するために戦っている。こうした作品において「悪役」の存在が明確に規定されることはなく、多くの場合主人公は相対的な位置に据えられて他の魔法少女との戦いに身を投じていくことになる。

 これは、近年のいくつかの作品の失敗からも逆説的に示される。例えば『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』を思い出してみればわかりやすいだろう。本作ではオタクである主人公たちの立場を脅かすものとして「SHOBON」をリーダーとする組織「SSC」が登場するが、SHOBONの動機はかつて自身の創作物をオタクに酷評されたというのみにとどまり、終始説得力を欠く。同様に『東京ミュウミュウ にゅ〜♡』は2000年代の作品をリメイクしたものだが、悪役であるエイリアンたちは主人公たちに親和的な態度を見せることもしばしばあり、「悪役」としては少なからず弱々しい印象を受ける。それゆえ、どちらの作品においても悪役を完全な「悪」として描き出すことについては失敗していたと言わざるを得ない。いまや「魔法少女」という存在は、それ自体では悪役に対抗する理由を規定することが難しい。

 こうした流れの中で近年、魔法少女ものはさらにいくつかの変化を見せているように見える。いわばそれは「悪」を生み出すための転回なのであり、魔法少女ものの新しい諸相であるとも言えるだろう。

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