『ルックバック』が与える“衝撃”の核に迫る 藤本タツキという傑出した“個人”の等身大の姿

 さて、ここからは、そんな本作が伝えようとしたことは何なのかを考えていきたい。主人公・藤野のように、小学生のときに漫画家になりたいという夢を持つ者は少なくない。漫画家に限らず、クリエイティブな職業だったり、スポーツ選手や芸能人など、競争率が高く安定的とは言い難い業種を目指そうとする者も多いが、進路の選択が現実のものとなってくる中学生頃から、より堅実な職業への道や人生設計を迫られてしまうケースは数限りないはずだ。もし目指していたとしても、人の目を気にして周囲に吹聴することはだんだん難しくなってゆく。とくに体面を気にしてカッコつけたがる藤野のような人物ならなおさらで、実際に友達や家族の意見に左右されて、自分の夢を捨て去ろうとするのも理解できるところだ。

 そんな藤野が、京本からの賞賛という無上の評価を得たことで、誰も見ていない雨の田園風景のなかで浮かれはしゃいでいる。その瞬間が示唆するのは、彼女にとって漫画を描くことは、やはり無上の喜びであり、他の可能性を捨ててでも漫画を選び取りたいという熱い想いである。そこからやはり、藤野・京本は、二人で合作をしながら中高生の時代を漫画制作にかけることになる。そして「藤野」、「京本」の名前の一字ずつを足すと「藤本」となるように、この二人は作者「藤本タツキ」の分身として描かれているのだと考えられる。

 引きこもりだった京本は、藤野の“背中を見る”、すなわち「ルックバック」を経て彼女を追っていくことで外の世界に触れ、充実した時間を過ごすようになってゆく。しかし、彼女は背景画の画集に出会うことで一念発起し、藤野と別れて美術大学(東北芸術工科大学)を受験しようとする。この京本の選択は、自立心の芽生えであることは確かだろう。これは、京本が背景画家として独り立ちし、漫画とは異なる世界に旅立とうとしていると解釈することもできるし、藤野が夢見る「超絶作画」の漫画にいつか参加して寄与するための下準備をしていたのだと解釈することもできる。どちらにせよ彼女が望んでいたのは、藤野の後ろにとどまるのでなく、いつか対等に並び立つような立場になることだと思える。

 しかし、その希望は凶行によって打ち砕かれる。本作の物語の重要な展開に触れることにはなるが、京本はある事件によって窮地に陥ることになるのである。この突然の展開による喪失は、解釈によっては、東北芸術工科大学で学んだ藤本タツキが、ある道を犠牲にして漫画の道を選んだメタファーであると考えることもできる。

 原作漫画が発表された当時、この凶行の箇所が実際の事件をモデルにしたと指摘されたり、精神疾患をわずらう人への偏見を助長するという指摘がなされた。ジャンプ+編集部は、この批判に対応し、セリフの一部改変をおこなっている。だが映画版である本作では、改変前の実際の事件を想起させるセリフに戻している箇所があるのだ。

 これは筆者の踏み込んだ想像ではあるが、アニメ業界が巻き込まれた実際の事件について、製作側は漫画業界よりも近いところにあるのは確かなことだ。アニメ業界全体が震撼したことになった事柄について、本作では理不尽な凶行に対する怒りを原動力に、あらためて当該部分を表現し直したということではないだろうか。もちろん、この想像は外れているのかもしれないし、当該箇所に対する批判意見や、さらにその反対意見も含め、議論は自由におこなわれるべきだ。何にせよ、こういった物議を醸す性質が備わった作品だということは留意しておいた方がいいだろう。

 本作の物語上の肝となるのは、この後だ。藤野は事件後に、もう一つの世界で物語をやり直すことになる。本作唯一のファンタジックな「ルックバック(振り返り)」の箇所であるが、それをかたちづくったのは、じつは藤野の願望が生み出した創作であることが、「京本」作であると銘打たれてはいるが藤本の作風にしか見えない漫画作品が登場することで、暗示されているのだ。

 そう考えれば「漫画」は、ただひととき世界に没入させ、現実を忘れさせる効果はあるが、それ以上の力を発揮することはできないのだと、ここでは示されているように思える。だが一方で、藤野の漫画の力が京本を引きこもっていた部屋から外に出すことになったのも確かなのだ。かつて手塚治虫の画期的な漫画作品『新宝島』が、藤子不二雄の未来を決定づけたように、漫画が誰かの人生を左右することは現実にあり得ることなのである。

 しかし、ここで漫画の影響の良い部分だけにフォーカスしないのが、シニカルな藤本タツキの作風だ。藤野の漫画は引きこもっていた京本の精神を救う効果を発揮してはいるが、同時に京本の不幸の間接的なきっかけにもなっていたのである。ある漫画に感動し、漫画の道を志す……それはある者にとっては“福音”になるが、ある者にとっては“呪い”にもなり得るのかもしれない。

 自分の生み出すものが、社会に貢献して誰かに希望を与えるかもしれないし、逆に社会を混乱させ誰かを不幸にすることも当然あり得る。売れっ子漫画家となった藤野は、強い悔恨と無力感に苛まれながら、また一人で机の原稿に向き合う。それは、言うまでもなく藤本タツキ自身が投影された姿なのだろう。だが、それをもし「美しい姿」だとして全肯定してしまえば、クリエイターのナルシシズムや特権性を賛美し掲揚するだけの内容だったということにもなりかねない。

 そう考えれば、映画館ですすり泣く声があちこちから聞こえたという声や、クリエイター全体の想いを代弁しているという感想もある本作は、心を揺さぶられる部分が間違いなくありつつも、実際には、いわゆる涙を誘うタイプの「感動作」とは言い切れないのではないのかという疑問をおぼえるところだ。

 藤本タツキは、現在連載中の『チェンソーマン』(第2部)で、露悪的な残酷描写で読者を揺さぶろうとしている。そういうタイプの作家が、多くの人々の感情と同調して一体感を得ることに快感を見出し、それを是としているとは思いづらい。あくまで本作の核には、ただ藤本タツキという傑出した個人の、等身大の姿があるだけなのではないのか。もちろん、その姿から何を受け取り、どう思い発展させるかは、観客一人ひとりに委ねられているのも確かである。

参照
https://moviewalker.jp/news/article/1204698/

■公開情報
『ルックバック』
全国公開中
原作:藤本タツキ『ルックバック』(集英社ジャンプコミックス刊)
監督・脚本・キャラクターデザイン:押山清高
出演:河合優実、吉田美月喜
音楽:haruka nakamura 
アニメーション制作:スタジオドリアン
配給:エイベックス・ピクチャーズ
©藤本タツキ/集英社 ©2024「ルックバック」製作委員会
公式サイト:lookback-anime.com
公式X(旧Twitter):@lookback_anime

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