濱口竜介による謎めいた一作『悪は存在しない』を解説 観客を混乱させる結末の狙いとは
いま、海外の映画祭で最も注視されている日本の映画監督、濱口竜介。各国の映画祭で数多くの賞を獲り、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭、いわゆる「世界三大映画祭」で受賞を果たしたほか、アカデミー賞国際長編映画賞も受賞する快挙を成し遂げている。世界三大映画祭での受賞とアカデミー賞を受賞したのは、日本では黒澤明監督以来である。
この偉業を完成させたのが、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)受賞作『悪は存在しない』だ。この映画が一般公開されているいま、話題となっているのが、異様ともいえる結末部分の意外な展開である。突飛に感じられるとともに観客を混乱させる内容は、果たして何を表現したものなのか。
ここでは、謎めいた本作『悪は存在しない』をどのように観れば良いのかを解説しながら、この種の映画の見方を提案するとともに、なぜこのような映画が海外の大きな賞を獲得できるのかを考えていきたい。
世界で名だたる賞を受賞し、一躍、濱口竜介監督の名を広く知らしめた『ドライブ・マイ・カー』(2021年)。その音楽を担当していたのが、シンガーソングライターでもある作曲家の石橋英子だ。本作『悪は存在しない』は、石橋が自身の「ライブパフォーマンス」のために濱口監督に映像制作を依頼するという、逆の立場からのオファーが基になっている。本作は、石橋の音楽世界に連なる映画作品ということなのだ。
映画史において、劇場で生演奏がおこなわれていたサイレント期より、映画と音楽の関係は、切っても切り離せないものになっている。音楽が映画を引き立てるように、登場人物の感情や情景に合わせた旋律やリズムを奏でること、あるいは、あえて全く逆の印象を与える曲をあてる「対位法」を利用して、観客の心情を揺さぶることが、映画と音楽との関係であると、一般的には考えられている。
しかし、本作ではそのような予定調和が、冒頭より乱されていると感じられる。映像と音楽が、全く関係がないようでいて、どこか有機的に繋がってもいるようなバランスは、従来からの映像と音楽との相互的な従属関係を意識的に回避しているように感じさせるのだ。
ジャン=リュック・ゴダール監督の映画による音楽の使い方もまた、従来の音楽と映画との関係を、立ち止まって考えさせるような“自覚的な意識”が存在する。本作のタイトルが、どことなくゴダール風に表示されたり、石橋のサウンドトラックのビジュアルにも露骨にゴダール風のレタリングが使用されているのは、まさに映画と音楽との関係が基となっている本作が、絶えずそこに自覚的であろうとする宣言であるだろう。
本作は、音楽への取り組みだけでなく、映像的な演出や物語の面においても、このような“自覚性”を持つという姿勢をとろうとしていることが、大きなポイントとなっている。映画は長い歴史のなかで、効果的なアプローチや演出を次々と発明してきた。それらをオマージュとして模倣していくことも、枠組みを利用することも、基本的には“悪”とはされてこなかった。しかし、いつしか模倣することが前提となり、その全てが無意識的におこなわれるようになっていった。演出から“自覚性”が失われていったのである。
革新的な表現に挑戦するのであれば、まず自らの表現の本質を捉えなければならない。ゴダール監督のような先人は、これまでどのような表現をおこない、それは映画に何をもたらし、何を形づくってきたのか。それを把握しつつ、自分がいま何をやっているのかをも正確に理解し、自覚とともに一つひとつの表現をおこなっていく……。濱口監督の師といえる存在の黒沢清もまた、そういう目で見るのなら、映画史や映画作家の表現を踏まえて映画を撮る映画監督であるといえる。
当初はスタッフとして参加していたという大美賀均が、本作の主演になっているのも非常に面白いポイントだ。こういう先入観や慣例を逸脱するようなアプローチは、通常の商業的な映画づくりのプロセスではあり得ない、むしろ学生映画のノリだといえるだろう。しかし、このような“気づき”をクリエイティブに柔軟に反映させるような姿勢があるからこそ、そこに無意識的な思い込みから観客を脱却させるような、より自由な表現への可能性が提示できるのではないか。
その大美賀均が演じているのが、長野県、水挽町(みずびきちょう)に代々住んでいる巧という、山や森に詳しく便利屋として働いている人物だ。彼は小学生の娘、花(西川玲)とともに自然のなかで暮らし、薪を割り水を汲みながら生活をしている。
彼らの生活圏でもある森のなかに、あるときグランピング場を作るという計画が持ち上がる。それは、東京の芸能事務所が補助金を目当てにしたもので、地元の住民の暮らしや自然への影響を軽視した、ずさんな内容のものだった。そのため、地域住民への説明会は紛糾する。
芸能事務所の社員たちは、全く考えが折り合わない会社と住民との板挟みのなかで、巧を頼るようになっていく。そこから、物語は意外な方向へと動き始め、あっけにとられるような結末へとなだれ込んでいく。
誰もが驚きを禁じ得ず、疑問を持ってしまうラストの展開……その真相や、登場人物たちがそれぞれどうなってしまうのかが気になってしまう観客は多いだろう。しかし大事なことは、作り手があえてそのような描き方を選んでいるということだ。つまりここにおいて、ことの真相をはっきりと示さないことや、登場人物や計画のその後を描かないのは、そういった点を知ることが本作にとって重要ではないということなのだ。むしろ、真相を考えさせることそのものに、本作の狙いがある。