河合優実の歌声に集約された『不適切にもほどがある!』の凄み “時代”からの解放がここに

〈私は今、17歳。まだ何者でもない 私はまだ、17歳。昔話のネタがない〉

 『不適切にもほどがある!』(TBS系)第6話において、河合優実演じる純子がそう歌った。歌自体は、「それぞれの昔話を馬鹿にしないで。戻りたくても戻れない17歳の話をしているだけだから」という、市郎(阿部サダヲ)による、昭和パートのマスター(袴田吉彦)との会話を経た実感としての、お馴染み令和ミュージカルパートの歌である。でも、大人たちの「17歳の話」の後、彼ら彼女らの波をかき分け、前に進み出て歌う純子の姿は誰より輝いていた。それを見守る劇中の大人たちだけでなく、視聴者の多くの視線が、小川純子、並びに演じる河合優実に釘づけになったことだろう。

 そしてそれは、単純に「まだ何者でもない」純子というキャラクターの純粋性のみでは語れない。もしくは、本来屈指の若手映画俳優である河合優実の内側にあった、山口百恵似とも言われるアイドル的魅力を、本作が引き出し、視聴者に知らしめたのだとも言えるが、それだけでなく、本作全体の魅力、並びに宮藤官九郎脚本の凄みがここに集約されているとも言えるのではないか。

 南沙織が名曲「17才」において〈私は今 生きている〉と連呼するように、純子が歌う1フレーズは、圧倒的に「今」なのである。江面(池田成志)や渚(仲里依紗)、松村雄基がそれまで歌ってきた「戻りたくても戻れない17歳の記憶」にそこはかとなく漂う哀愁とは違い、彼女には「今」しかないのだから。

 でも、その「私こないだ見たんだもん、泣いたんだよ、感動したんだよ」と感じる「今」は、教師である父に連れられて社会見学のように路線バスでタイムスリップしてきた彼女が佇む「令和」であるところの2024年の現在において、彼女の服装含め、「過去」でしかないという矛盾。そして、彼女自身が1995年に阪神・淡路大震災で亡くなってしまっているために、本当は2024年である「今」に存在していない霊的な存在なのだという皮肉な現実を突きつけられた時、「今見てるこの景色、これが昔話になるんだよね」という純子の台詞に、なんとも切なそうな表情をする父である市郎のみならず、誰もが言葉を失わずにはいられない。

 「令和Z世代VS昭和おやじ世代常識クイズ」という現実世界における世代間の分断をそのまま具現化したような不毛な嘲り合いの最中に歌われる曲の、とりわけ清らかなその歌声は、そこにいる全ての人々が生きてきた「今」を肯定し、時代や世代という枠組みを溶かし、永遠に循環させるのだ。まるで、第4話においてその多くが令和では「コンプラ的にアウト」であることを指摘された歌謡曲や、第1話の純子たちとキヨシ(坂元愛登)の会話の中に登場する『翔んだカップル』や『ねらわれた学園』、『時をかける少女』といった映画のように、時空を越えて、人々の心を繋ぐ。

 「今」を生きている私たちは思わず今あるものこそが最も優れたコンテンツだと過信してしまう。でも、本当にそうだろうか。本作を通して感じずにはいられないのは、令和の会社員・秋津真彦はその名前の中に、父親であるムッチ先輩こと睦実(ともに磯村勇斗)の憧れ・マッチを内包しているし、渚もまた、大島渚ならぬ「犬島渚」であることに映画ファンが平静でいられないことは一旦物語の外側に置いたとしても、母である純子の台詞の中に登場した「渚のはいから人魚」(小泉今日子)や、「渚のシンドバッド」(ピンク・レディー)を巡る家族への思いが影響下にあるだろうことは容易に推測できるのである。

 つまり、昭和と令和、もちろんその間の平成も含め、祖父から母、母から娘(あるいは父から息子)へと、それらは連綿と繋がっていて、決してそれ単体で存在しない。

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