映画『舟を編む』が特別な実写化作品である理由 スクリーンに刻まれた“時間”の尊さ

 石井裕也監督が一躍その名を世に知らしめた傑作『舟を編む』の公開から、もう10年の月日が流れたという。その間に、石井は『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』や『月』といった優れた作品を生みだし、『舟を編む』という物語もテレビアニメやテレビドラマが作られている。松田龍平や宮﨑あおいはいまも変わらず主演級の役者として活躍しているし、黒木華のように本作の以後大きな飛躍を遂げた役者もいる。また一方で、加藤剛や八千草薫はすでにこの世を去った。特別な作品であればあるほど、その節目のタイミングに“時間”というものが確かに存在しているのだと感じることになる。

 この劇中で流れる時間は1995年から2008年までのおよそ12~13年。登場人物たちが中型辞書『大渡海』を完成させるまでに費やした期間は15年余りと語られるとなれば、仮に映画公開の頃に一から辞書を作るプロジェクトが動き出していたとしても、おそらくまだ途方もない校閲作業の最中であろう。日々移り変わっていく言葉を見つけ出しては“要例採集”をおこない、どの言葉を見出し語として掲載していくべきか検討を重ねることも、きっと併行して繰り返されているはずだ。

 “言葉”というのは生き物であり、同じ文字の羅列であってもアクセントが異なれば意味も異なり、同じアクセントを持っていたとしても異なるいくつもの意味を持つ。そこに時間の経過や、その言葉を使う人々が生きるカルチャーの変容、あらゆるファクターが加味されることで、時に生かされ、時に殺され、時に進化して残り続ける。

 詰まるところ、何十万という言葉の意味が端的な言葉によって記された辞書という書物は、言葉たちの生きた証の克明な記録である。それは、我々が視覚を通して目撃した光景を“映像”として記録し他者と共有し後世に残そうとするメディアである映画と、とてもよく似た性質を持ち合わせているといえよう。

 三浦しをんの原作小説は、各章ごとに何人かの登場人物の視点から辞書編集の過程とその周辺にある人間模様を描写していく。映画版においても各々の物語が尊重され、それぞれが辞書編集にかける心情や仕事に対するモチベーションなどが器用に組み立てられている。たしかに松田龍平演じる馬締光也という中核を担うキャラクターがいるとはいえ群像劇に、あるいは“主人公:辞書編集部”といわんばかりの構成で進められていくのだ。

 それをよくあらわしているのは、時間軸が一気に進む直前、物語のほぼ中盤にあたるシーンだ。『大渡海』の制作続行を上層部に掛け合い、それと引き換えに辞書編集部を離れなくてはならなくなったオダギリジョー演じる西岡正志が、馬締の下宿するアパートの一室で酔った勢いにかまけて恋人にプロポーズをし、そのまま酔い潰れてしまう。そっと自室を出てきた馬締が、宮﨑あおい演じる林香具矢と共に階上にあがっていき、掛け時計が0時を告げる鐘が木造アパートの廊下に響いている。

 西岡の人生の岐路、馬締と香具矢の恋の進展。辞書編集部の先行きの不確実さと、対照的にたしかに前に進んでいる登場人物たちの人生模様とが、ひとつの小さなアパートのなかで交差し、第一幕のフィナーレに選ばれる。それは同時に、現代的なビルヂングに併設した旧館のなかにひっそりと佇む辞書編集部と、都会の真ん中にぽつんとある古めかしいアパートという、この映画がなによりも尊ぶ“時間”を示すものでもあり、大きな場面転換の瞬間としてこれ以上的確なものはないだろう。

 もっぱらそうしたヒューマンドラマを動かしていく役割を果たすのは、ひたすら言葉を見つけだして拾い上げ、薄く滑り感のある紙の上に一点の抜かりもなく詰め込んでいく辞書編集の作業に他ならない。あらゆる職業に就く人々の、あらゆる仕事の光景が、これまで幾多の映画やドラマで描写されていたが、これほどまでに淡々とした、包み隠さずに言えばあまりにも地味な“お仕事ドラマ”があっただろうか。

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