『ブギウギ』“歌が苦手”な趣里が「ラッパと娘」を完成させるまで スズ子の歌が持つ凄み

 福来スズ子(趣里)の“完成形”「ラッパと娘」を聴いた時の高揚感と、あの時代の人々が初めて笠置シヅ子の歌い踊るさまを観た時の高揚感は、きっとおんなじだ。

 あの爆発するような高揚感は、「歌が苦手」と公言している趣里だから生み出せたものだ。

 「わたし、なんでもそつなく歌えます」みたいな俳優が、スズ子役にならなくてよかった。あの歌は、そんな「テクニック」で歌うものではない。これまでの人生で溜め込んで溜め込んで溜め込んだ抑え切れない何かが溢れ出して止められないようなあのステージは、上手いとか下手とかそんな次元を超越している。なまじ上手な歌い手では、あの次元にはたどり着けなかったはずだ。

 劇中のスズ子も、あの次元にたどり着くまでに相当苦労しているさまが描かれている。その様子は、現実の「歌が苦手」な趣里が、昭和のスター歌手を演じるにあたっての苦労と、オーバーラップする。

 大阪の梅丸少女歌劇団(USK)から意気揚々と東京進出を果たしたスズ子。だがいきなり、“笑うスウィングの鬼”羽鳥善一(草彅剛)の特訓を受けることとなる。

 亡くなった憧れの先輩・大和礼子(蒼井優)を目標としていたスズ子は、綺麗に綺麗に歌おうとしていた。だが、綺麗に歌った「ラッパと娘」は平板で面白くない。

 羽鳥先生も、長嶋茂雄的な、天才に特有の“感覚で喋る人”である。

「福来くん、ジャズだよ、ジャズ」
「バドジズできればいいんだよ。今の福来くんは、全然バドジズしてないよね
「そっちじゃないんだよなー、あっちなんだよなー」

 あっちってどっちでっしゃろ!? と聞きたくなるが、羽鳥先生の狂ったような笑顔を見ると、何も言えなくなる。

 自分自身でつかみ取るしかないのだ。

 追い詰められ、何かが切れたスズ子は、善一の家を訪れる。

 そこでスズ子が「先生を殺したるって気持ちで」歌いだした時、羽鳥先生の表情が変わった。

「どうしちゃったの! なんだか少しだけジャズっぽくなったじゃない!」

 羽鳥先生の考えるジャズとは、楽しいものだ。お上品に取り繕われたものは、得てして堅苦しく、楽しくない。お上品な外面(そとづら)を取り去って、感情を爆発させた時、人間はスカッとする。楽しくなる。たとえそれが、「殺意」というネガティブな感情であっても。

 この“スズ子覚醒!”のシーンで、筆者の頭の中では「ロッキーのテーマ」が流れた。この覚醒から本番までの流れは、名作『ロッキー』シリーズで何度か観た気がする。

 『ロッキー』シリーズは、毎回何かが原因でロッキー(シルヴェスター・スタローン)のモチベーションが下がる。見かねたエイドリアン(タリア・シャイア)のひとことで覚醒する。「ロッキーのテーマ」が流れる。筆者号泣するーーという流れを、筆者の中で40年ぐらい繰り返している。

 ちなみにスズ子にとってのエイドリアンは、片想いの演出家・松永(新納慎也)だった。松永の、「羽鳥先生が憎ければ、その気持ちのまま歌えばいい(意訳)」というひとことが、スズ子覚醒のきっかけになったのだ。

 そしてこの覚醒が、スズ子にとって本当の意味での大和礼子との別れだったのだと思う。

 現実の笠置シヅ子は、人生の中で辛い別れをいくつも経験している。そしてどうやら今作は、その辛い別れと代表曲誕生が、セットになっている。

 移籍騒動のゴタゴタの中で「センチメンタル・ダイナ」が完成した時、羽鳥先生がスズ子に言う。

「嬉しい時は気持ちよく歌って、悲しい時はやけのやんぱちで歌う。僕たちは、そうやって生きていくんだよ」

 「殺意」を乗せて歌ったことで、スズ子は覚醒した。先述の通り、ネガティブな感情でも、正直に歌に乗せれば感動を呼ぶだろう。それが「悲しみ」ならなおさらだ。聴衆の涙を誘うだろう。

 「別れの悲しみ」を繰り返し、それを乗り越えることで、スズ子は歌い手として成長していく。ドラマチックだが、残酷だ。

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