『首』は北野武の集大成となる一作に 二大監督からの影響と世界に通用する表現を考える

北野武『首』から世界に通用する表現を考える

 さて、本作『首』である。武将・明智光秀が謀反を起こし、主君である織田信長を殺害した事件「本能寺の変」の顛末を、自作『アウトレイジ』シリーズの歴史時代劇版と言う風情で北野武流に描くという趣向だ。「全員悪人」という惹句が設定された『アウトレイジ』シリーズ同様、戦国武将たちが現代のヤクザのような振る舞いをするのが面白い。

 その裏にあるのは、日本における戦国武将や大名など、現代も英雄視されている歴史上の人々に対する懐疑的な視点であろう。騎馬や刀、弓矢が活躍する時代の合戦というものは、ロマンとして描かれてきたところがあるが、ここではそれは、権力を持たない者から先に殺されていく、醜い血みどろの殺し合いでしかないという描写で表現されている。この時代には常識だったのかもしれないが、この蛮行が日常だったとするならば、大名や武将という存在はいかに異常な人物たちであったのか。そんな現代からの冷ややかな目線で、この時代の異様さを風刺してみせるのである。

 武将・清水宗治(しみず むねはる)が舟の上で自刃するという悲壮なはずのシーンも、荒川良々によってコミカルに演じさせたように、武士の魂といえるような要素すらも笑いに転化してみせる。一見すると不謹慎に思えるギャグだが、確かに現代の目から見ると、大勢の名もなき人々が合戦で命を落とし忘れ去られているなかで、特権階級にある人物が自刃して名を残し、庶民がそれを美談として語り継いでいる歴史を茶化したくなるというのは理解できるし、これぞいかにも頭脳派のコメディアン、ビートたけしらしい発想だといえる。

 ここに、黒澤的なリアリズムの応用が見てとれる。歴史を額面通りに受け取り、従来の日本人が語り継いできた歴史観による物語を繰り返すことに、果たして心から共感できるだろうか。例えば赤穂浪士の討ち入りは、代表的な美談として日本で語り継がれてきてはいるが、家臣が主君のために命を捨てる滅私奉公を、太平洋戦争を経てなお、変わらず賞賛の気持ちを持てるかといえば、微妙なところなのではないか。少なくとも、このようなタイプの「武士道精神」というのは、海外で無批判的に受け取られるとは思いづらい。武士道というものが権力者に都合よく利用されてきたことについては、戦後すぐに作家・坂口安吾によって、怜悧な批判がなされている。

 大島渚監督もまた優れた知性によって、第二次大戦を振り返っている。『戦場のメリークリスマス』では、日本の戦争犯罪を告発するのと同時に、性的マイノリティが保守的な思想との板挟みのなかで苦悩する姿を通し、強権的な主義・思想が孕む矛盾への批判をおこなっている。『戦場のメリークリスマス』で驚かされるのは、公開された当時より現在の方が、近年の世の中の動きを踏まえることで内容をよく理解できるという事実である。それは、いかに大島監督が歴史を公平にとらえ判断できる、広い視野を持っていたのかということを示している。

 『御法度』(1999年)は、そんな大島監督の最後の映画作品であり、歴史時代劇で『戦場のメリークリスマス』の要素を引き継いだ作品であるといえる。「新撰組」副長・土方歳三役で出演するとともに、病状が思わしくない監督のサポートを現場でおこなったビートたけしをはじめ、キャストには錚々たる俳優が選ばれている。

 そこで描かれる新撰組は、あくまで世の乱れに乗じて力を持ち始めた、剣の腕がものを言う暴力集団である。そんな組織の体制を維持するために、やはり同性愛が排除されようとする。それは、主君が側に置いた小姓と契りを交わす、君主と臣下の絶対的な関係のなかでの“男色”になぞらえ「衆道」と、劇中で称されている。強者が力を持つ新撰組の権力のピラミッドのなかで、少数者が異端として苦しめられる構図は、現代社会のカリカチュアとしても機能しているのだ。

 本作『首』では、明智光秀(西島秀俊)と荒木村重(遠藤憲一)の、君命を違えた秘密の恋愛関係も描写されるほか、織田信長(加瀬亮)と森蘭丸(寛一郎)という、主君と小姓の関係による本当の意味での「衆道」が描かれる。しかし、この時代ではそういった関係が、むしろ“武将の嗜み”と見られる部分があったため、関係そのものを否定するような外的な圧力は起こらない。

 だが、これが当時の自由な気風を表しているかといえば、むしろ逆だろう。衆道においては主君に抱かれる若者に選択権はなく、身をまかせる他ないからである。本作ではこういった主従の描写を、美しいものだとせず、暴力のままに描いているのだ。“日本の伝統”なるものに斟酌を加えない……強い意志や自信を持たなければ、この姿勢をとることはできないはずだ。思えば、北野武はヤクザを描写するときには、ある種の伝統への憧れやセンチメンタリズムが、どうしても含まれていたように感じられる。しかし、ここにはそれが全くない。

 北野武がビートたけしとして演じる羽柴秀吉は、ユーモラスながら生き残りをかけて非情な策略を進めていく、狂った時代にフィットした、狂った人物として表現されている。基本的には黒田官兵衛(浅野忠信)ら側近に事態の対処法を考えさせ、自分自身は作戦にゴーサインを出すというシステムだ。知恵者として知られる秀吉だが、老いては管理者・決定者としての機能にとどまる場合が多いところが、むしろ合理的に現状を判断できる、“天下獲り”の資質として示されているところも面白い。

 歴史研究では、明智光秀の首がどこにいったのかは文書で確認されていないらしい。本作では、その曖昧な部分を利用し、天下獲りのアイテムとして秀吉が大勢の死者の首実検をする様子が印象的に描かれる。その光景は、まさに地獄の餓鬼や亡者のあさましさを思い起こさせる。そこまでに本作は、戦乱の世を、そこで生きて名を残す人々を、常軌を逸した者として表現するのである。

 そんな羽柴秀吉に、不思議に共感できるところがあるのは、やはり農民出身であることが起因していると考えられる。彼はもともと農民であるがゆえに、武士としての情に欠けるところがある。だからこそ、一層残酷にも見えてしまう。しかしそれは同時に、侍の習慣や不要なプライドなどから解き放たれているともいえよう。それがよく分かるラストのセリフは、残酷さに戦慄しつつも、爽快にすら感じられるのである。

 基本的に時代劇では、日本各地で敬愛されている戦国武将や大名について、その面目を失わせるような描写を避けるものだ。しかし、本作は違う。本作を観た上で、並び立つ群雄に憧れを抱き、合戦の時代に生まれて戦いたかったと思う観客が、果たしているだろうか。このセンチメンタリズムを徹底的に排した姿勢は、あらゆる虚飾を取り去った、リアリスティックな戦争映画に近いものがある。そのスタイルを、日本の戦乱の時代を舞台に、ここまで反映させ、歴史や権威に対する遠慮や忖度とは無縁の世界を表現し得たというのは、黒澤明監督がチャンバラに“血を通わせた”ように、大きな功績といえるのではないか。

 それぞれの時代を切り拓いた、黒澤作品や大島作品があってこそ、北野作品の達成がある。もちろん、北野武監督は両監督の模倣をそのまましているわけではない。彼らのように島国の枠をはみ出していく精神性と、現状を変革していく意志をこそ受け継いでいるといえるのである。

■公開情報
『首』
全国公開中
原作:北野武『首』(KADOKAWA刊)
監督・脚本:北野武
出演:ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、中村獅童、木村祐一、遠藤憲一、勝村政信、寺島進、桐谷健太、浅野忠信、大森南朋、六平直政、大竹まこと、津田寛治、荒川良々、寛一郎、副島淳、小林薫、岸部一徳
製作・配給:KADOKAWA
©︎2023KADOKAWA ©︎T.N GON Co.,Ltd

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