『ブギウギ』らしさが詰まった黒崎煌代の芝居 “人間にフタをしない”足立紳の脚本を考える
六郎(黒崎煌代)の出征とツヤ(水川あさみ)の死、朝ドラことNHK連続テレビ小説『ブギウギ』第8週「ワテのお母ちゃん」は哀しみの連続だった。にもかかわらず、週末、ツヤが起こした奇跡の話の視聴後感は、不思議に心がふっと軽くなるもので、それが『ブギウギ』の良さなのだろう。主題歌「ハッピー☆ブギ」の歌詞に、〈ブギが心を軽くする〉とあるが、ドラマのタッチもまるでブギのようだ。
朝ドラではこれまで、「つらいときこそ笑うんや」(『わろてんか』)や「無理に笑うことはない」(『なつぞら』)、などメッセージ性のあるセリフが登場したが、笑うのか、笑わなくていいのか、どっちにしたらいいのか。すると、『ブギウギ』では、泣くも泣かないも強要しない。たぶん、泣いてもいい、笑ってもいい。ブギをはじめとする音楽や踊りというエンターテインメントに触れることで、“楽しいお方も 悲しいお方も”自然にカラダと心が反応することを目指しているような気がする。
スズ子(趣里)の仕事は、“楽しいお方にも悲しいお方にも”、歌を届けること。だから、ツヤが危篤になってもステージを休んで即、実家に駆けつけることはしない。迷った末、羽鳥(草彅剛)の助言も手伝って、ステージを優先する。彼女はもっと歌がうまくなりたいと願うのだ。ステージを観に来た人のなかには、弟と別れ、母を失い、何かにすがりたいと思う人もいるかもしれない。その人たちの心に染みて、何か感情や行動を駆動する歌を歌うためには、心も技能も向上させなくてはいけないのだ。
スズ子のモデル・笠置シヅ子は、ステージを優先し、母の死に目に会えなかったらしいが、スズ子が生きてるうちに会うことができたことは救いだ。自分の生きる道(ステージ)を選択したスズ子は「どアホや」と自虐するが、ツヤは娘を肯定する。そんなツヤだって“どアホ”なのだ。キヌ(中越典子)の子であったスズ子を預かったまま返さず、自分の子として育ててきたのだから。
他人の子を自分の子のように偽った罰が当たって、不治の病にかかったのではないか、とツヤは少し弱気になるも、スズ子の出生の秘密を決して明かしたくないと考える。自分が死んでも、キヌとスズ子に会ってほしくない。自分の知らないスズ子をキヌに見られたくない。なんという欲深さであろうか。それを当人が最も自覚していて「性格悪いやろ、醜いやろ」と梅吉(柳葉敏郎)にツヤは問いかける。でも、梅吉は「最高の母親や」と肯定するのである。容態の悪いツヤを気遣っているわけではなく、本心であろう。
実はスズ子はとっくの昔に、真実を知っていた。でも、家族3人は、ほんとうのことを言わないまま、ツヤとの別れを惜しむ。花田家の家族はみんなどこかズレている。そもそも、梅吉がまったく働いている様子がなく、家計のことはツヤ任せ。脚本家の夢を見ているだけでものになりそうにない。ツヤは、働かない夫を適度にあしらいながらも別れる気はこれっぽちもなく、最後まで添い遂げたことから、働き者で、さばさば系の良妻のように見えていたが、実は、ゆるやかな幼児誘拐のようなことをしていたわけで(『八日目の蝉』みたいな話になりかねない)、人は見かけによらないものだ。