『アッシャー家の崩壊』をマイク・フラナガンが映像化した意義 原作小説から読み解く

 『告げ口心臓』や『黒猫』が真に恐ろしいのは、このような感情が読者自身にもあるのではないかと思わせるところだ。未来の展望や現在の幸せの全てを投げ出し、破滅に陥ってしまいたいという暗い願望は、じつはどのような人間にも備わっているのかもしれない……ポーの筆致は、読者をそのような思いへと駆り立てていく。

 『大鴉』の青年もまた、カラスを一つの口実にして、自ら絶望へと身を投げようとする。この、自分自身を地獄へと突き落としたいという奇妙な願望こそが、ポーの到達した極限的な人間心理であり、恐怖の根源だったのではないか。そしてこの恐怖は、現在を生きるわれわれの心をも、依然として捕らえる力がある。

 本シリーズでは、カラスをイメージさせるヴァーナが、幸せを投げ捨てる選択を自らしてしまうような心理を誘う、一種の狂気として映し出されていると思われる。それは、ロデリック自身はもちろん、彼の提供する薬剤に依存し、破滅が分かっていても多量に服用してしまう被害者たちの構図にも表れている。それだけでなく、劇中の登場人物は、さまざまな欲望にかられて、自ら死の淵へと歩を進めてしまう。

 マーク・ハミル演じる男は、この構図に興味深い変化を与えている。彼は、愛する者、執着するものを持たないことで、弱みを克服した人物として描かれている。この非人間的といえる男がどのような結末を迎えるのかも、本シリーズの見どころといえる。

 脚本も担当しているフラナガン監督は、このような破滅願望を現在の社会問題にかけ合わせることで、ポーの文学性の本質部分と自身が作品を撮る意味を、同時に成立させていると思われる。この達成は、フラナガン監督の知性の高さ、そして深さを、『真夜中のミサ』同様に示すことになったといえるだろう。

 とはいえ、本作を鑑賞することでポーの文学を十分に理解することは難しいだろう。本シリーズは、有名なポーの作品をアレンジし、ひねりを加えることで視聴者を楽しませようとする。つまり元ネタを知らなければ、改変した意図も伝わらないのである。

 とくにアメリカの視聴者たちは、アメリカを代表する文学者であるポーの作品を読んでいる割合が高く、それが後世の作品にどれほどの影響を与えているのかも知っている人が多い。だからこそ本シリーズは、視聴者がポーの諸作の内容を知っているという前提で提出されているということなのだ。

 もし、本シリーズを鑑賞しようとしていて、そこで各話のタイトルとしてもフィーチャーされている作品の数々を読んだことがなければ、ぜひ原作小説にも触れてほしい。そうすれば、エドガー・アラン・ポーが、なぜ文学史のなかで燦然と輝く存在となったのかを理解できるはずだ。そして、読んだことがある人も、本シリーズを通して、もう一度あの恐怖を味わってみたいと思ったはずだ。本シリーズの存在意義は、そこにもあったのではないだろうか。

参照

https://www.atlasofwonders.com/2023/10/where-was-the-fall-of-the-house-of-usher-filmed.html?m=1

■配信情報
『アッシャー家の崩壊』
Netflixにて独占配信中

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