前期タランティーノの集大成? SZA経由で再評価? 20周年『キル・ビル』を再考する

 クエンティン・タランティーノの4作目となる監督作品『キル・ビル』の「Vol.1」が公開されたのは2003年の10月(北米公開10月10日、日本公開10月25日)。つまり、2023年10月は『キル・ビル』が公開されてちょうど20周年を迎えた月となる。ちょうどスターチャンネルでは10月、『キル・ビル』公開20周年を記念してタランティーノ特集が組まれている(Prime Video チャンネルの「スターチャンネルEX」でも見放題配信中)。これを機に、自分も久々にこの長大な2部作を見直してみたところ、この20年間に起こったハリウッドの変化やポップカルチャーの進化について様々な感慨に耽ってしまった。

 改めて驚かされるのは、2000年代前半のタランティーノがいかに作家としての自由を謳歌していたかということだ。物語自体は極めてシンプルな復讐劇であり、主要なキャラクターも決して多いわけではない『キル・ビル』は、そもそも一本の長編映画として製作された作品だった。しかし、タランティーノが過去の日本映画、香港のカンフー映画、マカロニウェスタン作品などからの膨大なオマージュとレファレンスを作品に詰め込んだことで尺が4時間を大幅に超えてしまって、『Vol.1』と『Vol.2』(北米公開2004年4月16日、日本公開4月24日)の2本の作品に分けて公開されることとなった。

『キル・ビル Vol.1』

 これは、商業的な理由によって作品を容赦なく編集で切り刻んでしまうことで知られていたプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの製作作品としては極めて異例な処置だった。デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992年)から監督8作目『ヘイトフル・エイト』(2015年)まで続いて、#MeToo運動の発端となった2017年のワインスタインに対する数々の告発によってすべてが瓦解したタランティーノとワインスタインの密接だった関係については、これまで散々語られてきたことなのでここで蒸し返すつもりはないが、当時40代に入ったばかりのまだ「若手監督」だったタランティーノを、ワインスタインがいかに特別扱いしていたかがわかる。

 #MeToo運動のピーク期に、『キル・ビル』は別の問題でも槍玉に上がった作品の一つだった。この件については第一報の内容がその続報によって訂正されているので、タランティーノの名誉回復のためにもこの機会にちゃんと触れておきたい(スキャンダラスな第一報のみが広く拡散されて、その続報は行き渡らないというのは他の件でもよくあるケースだ)。ワインスタイン告発の発端(の一つ)となる記事を掲載したニューヨーク・タイムズは、2018年2月、その後追い記事としてユマ・サーマンの告発を取り上げた。その記事でサーマンは、『キル・ビル』の撮影終盤、自分が拒否したにもかかわらず運転シーン(水色のフォルクスワーゲン・カルマンギア・タイプ1・カブリオレ。2019年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でブラッド・ピット演じるクリフが乗っているのとまったく同じ車種とカラーだ)で自演することをタランティーノから強いられ、その結果、大事故を起こしたエピソードを語った。この記事が出たことでタランティーノは熾烈な批判に晒されることとなったが、別のメディアによる続報、及びサーマン自身による記事の反響を受けたInstagramの投稿によって、サーマンとタランティーノはその記事が出た数年前に和解をしていたこと、サーマンがその時点で本当に怒っていたのは、事故が起こった際の証拠映像を隠蔽し続けてきた製作サイドのワインスタイン、ローレンス・ベンダー、E・ベネット・ウォルシュらに対してであったことが明らかになっている。

『キル・ビル Vol.2』

 もっとも、1年以上に及んだ『キル・ビル』の撮影中、主演のサーマンが身体的にも精神的にも相当に追い込まれていたであろうことは、作品のいたるシーンからヒシヒシと伝わってくる。公開当時は明らかにされていなかったその事故の直前に撮影されたであろう『Vol.2』終盤の運転シーンを今回改めて観て、自分は胸が苦しくなるような感覚に襲われてしまった。現在の視点から、あるいは今作のように後年になって明らかになった事実をふまえて、「よくこんな役者を追い込むようなハードな撮影をおこなっていたな」と思うことは、『キル・ビル』に限らず映画史においては決して珍しいことではない。そして、それを「だからこそこんなに鬼気迫るシーンになったんだ」と無邪気に称揚するようなことは、現代に相応しい振る舞いとは言えないだろう。しかし、過去の映画が現在とは違った常識やしきたりの中で作られていたという事実は、事実として冷静に受け止める必要がある。現代の視点から過去を否定することは、つまり数年後には未来の視点から現在も否定され得るということだ。バックラッシュも含めて、そのように時代ごとに移ろっていく否定の連鎖と、映画史や作品の評価は切り分けなくてはいけない。

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