アメリカ映画におけるハッピーエンドとは? “移民二世”が主人公の作品から読み解く
「自分の物語」を語り始めた移民二世の監督たち
先に上げた作品のうち、『マイ・エレメント』や『私ときどきレッサーパンダ』、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、監督自身が移民二世であり、自身の経験や親世代に思いを馳せて作られた作品だ。彼ら新しい世代の監督たちは、これらの作品をとおして“自分の物語”を語っている。
『マイ・エレメント』の主人公エンバーは、移民としてエレメント・シティにやってきた両親が必死で築いてきたものを受け継ぎ、守るつもりでいた。しかし、水の青年ウェイドを介して外の世界を知り、自分に新たな可能性を見出していく。親の期待を一身に背負い、自分でもその期待に応えるべきと考えていた彼女だが、世界に触れたことでそれ以外の選択肢を手に入れる。しかし、やはり両親の苦労を知っているからこそ、簡単にその可能性に飛びつくことはできず、葛藤するのだ。
本作のピーター・ソーン監督は、韓国系移民二世だ。彼はニューヨークで生まれたものの、韓国の伝統や言語、文化に取り囲まれた保守的な家庭に育ったという。エンバーの祖母の遺言が「火の男性と結婚しなさい」だったのと同じように、彼の祖母も「韓国人と結婚しなさい」と言ったそうだ。そのため、彼は当初イタリア人の血を引く妻との交際を秘密にしていたという。まさにエンバーとウェイドの関係そのものだ。ソーンは親世代との衝突を経て、彼らが自分たち子供世代のために払った犠牲を理解し、感謝するようになったと語る。同じようにエンバーも、自己を確立する過程で、両親から受け取ったものの意味を理解する。新しい世界に踏み出すことは、自分のルーツを否定することではない。それは、より良い未来を夢見て祖国をあとにした親世代の決断と同じだ。
『私ときどきレッサーパンダ』では、主人公のバックグラウンドが監督とほぼ同じになっており、よりパーソナルな作品という印象を受ける。主人公であるメイリン・リーと監督のドミー・シーは、ともに中国系カナダ人。物語の舞台は2002年のトロントで、メイは13歳。1989年生まれのシーと同い年だ。同作のメイキングドキュメンタリー『レッサーパンダを抱きしめて』(2022年)で、2歳のときに両親とともに中国からカナダに移住した彼女は「プレッシャーのなかで育った」と語っている。彼女は「守るべき家族の伝統」があり、「祖国を捨てた家族の犠牲を無視できない」と感じつつ、「新しい国での親にはできなかった数々の経験」を楽しみたいと思っていたとも語っている。親からの期待と自分の望みに板挟みとなり、悩む子供、特に移民の子は多いのではないかと彼女は言う。同作のメイリンも、まさにこの葛藤のなかで、自分をコントロールできなくなると、巨大なレッサーパンダに変身してしまう。
ピーター・ソーンもドミー・シーも、移民二世である自分自身の経験を下敷きに、楽しくも美しい家族の物語を作り上げた。彼らが語る“自分の物語”は、親子の葛藤という普遍的な物語でありながら、特に同じバックグラウンドを持つ観客にとって、より身近に感じられる物語になっているのだ。
移民の物語を語る意義とハッピーエンド
近年、ハリウッドに代表されるエンターテインメント業界では、人種・性別・セクシュアリティなどにおいて、多様性が求められている。しかし、そういった難しい話は抜きにしても、「共感できる」「自分を投影できる」キャラクターがいるのは、物語を楽しむうえで大きな要素になるだろう。移民二世の物語も、移民が増えつづけるアメリカ社会において、より多くの人の共感を集めることができるものだ。ディズニーやピクサー、イルミネーションなどのアニメ作品は、子供を主な観客として想定していることから、これまで必要以上にキャラクターに民族性を与えてこなかった。しかし、『マイ・エレメント』や『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』など、移民やその二世を主人公とした作品が増えているのは、そうしたバックグラウンドを持つ子供たちが増え、彼らがより共感できるようにといった側面もあるだろう。これらの作品の監督が語る“自分の物語”は普遍性を持ち、多くの観客にとって“私の物語”になる。
移民二世を主人公とした作品の多くは、親の期待からの解放と同時に、ありのままの自分を親に受け入れられ、子供も親を完全ではない1人の人間として捉えるというハッピーエンドを迎える場合が多い。親子間でお互いを独立した個人として尊重することは、なかなか難しい部分もあるだろう。しかしそんな自由で愛情深い関係を築くことが、多くの人にとってハッピーエンドとなるのだ。
参照
※ https://ecodb.net/country/US/migrant.html