宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 最終回『君たちはどう生きるか』

「僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います」(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』p298)

宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第1回『ナウシカ』から『トトロ』まで

「やっぱり基本的に、ものすごくみんな真面目に『自分はどういうふうに生きていったらいいんだろう?』ってふうに子供たちが思ってる…

宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第2回 『魔女宅』から『もののけ姫』まで

「自然に優しいジブリなんて思い込んでいる奴を蹴飛ばしてやろうと思ったんです」(『風の帰る場所』p155) 宮﨑駿の…

宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第3回『千と千尋』から『ポニョ』まで

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宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第4回『風立ちぬ』

「だからファンタジーはね、今できないんですよ。(…)陰々滅々としたファンタジーもね、キラキラしたファンタジーもね、両方とも嘘…

破局へと向かっていく時代への警報

 警報。

 灯火の消えた家々の上に、サイレンの音が鳴り響く。おそらくは空襲だろうか、巨大な火災の炎の中で、母が亡くなっていく。

 映画『君たちはどう生きるか』の冒頭である。第二次世界大戦の時代を描く本作が、どのような問題意識で作られているのか、これまでの連載をお読みになった方なら、明らかであろう。宮﨑駿は、過酷な「戦争と災害の時代」が訪れると確信し、そのようなファシズムの時代を「どう生きるか」を子どもたちに教えるために、『風立ちぬ』以降の映画を作っている。『崖の上のポニョ』までの作風と大きく転換した『風立ちぬ』は、震災以後、これまで通りのやり方でやっていては駄目だ、という問題意識の反映でもあった。

 吉野源三郎が1937年に刊行した小説『君たちはどう生きるか』のタイトルを借り、作中に登場させた理由も、児童文学を紹介する『本へのとびら』において、本書に言及している箇所を見ると明らかである。ケストナーの『飛ぶ教室』について論じながら、「この作品には、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』と同じようなものを感じました。時代が破局に向かっていくのを予感しつつ、それでも『少年たちよ』という感じで書かれたものだと僕は思います」(p80)と書かれている。

 1937年と言えば、1931年の満州事変から6年、盧溝橋事件が起こり、中日事変へと発展して日中戦争が開戦した年である。『君たちはどう生きるか』を含む『日本少国民文庫』の企画は、「国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期」であり「ヨーロッパではムッソリーニやヒットラーが政権をとって、ファシズムが諸国民の脅威となり、第二次世界大戦の危険は暗雲のように全世界を覆っていました」と吉野は語る(『君たちはどう生きるか』岩波文庫版、p301-302)。この時期に、この時勢を考えて『日本少国民文庫』の刊行は計画された。「軍国主義の勃興とともに、すでに言論や出版の自由はいちじるしく制限され、労働運動や社会主義の運動は、凶暴といっていいほどの激しい弾圧」(同、p302)を受けており、自由な執筆は既に出来ない中で、本書は刊行された。その目的は「偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを」(同、p302)若い世代に伝えておかねばならないと思ったからである。

 そういう時代がまた訪れる、という強い危機感と切迫感が宮﨑にはある。だから、それに対する「警報」と、その時代の歴史を描くことを通じて、「どう生きるか」を若い世代に教えようとしている。そのような「警報」を発する意図は、以下のような宮﨑の問題意識から来ているだろう。

「職場で話していたんですが、俺たちは平安末期の貴族の館の片すみでアニメーションを作っているんだって。治安がいいだの、失業率が低いだのといって安心して自分探しなんて言ってるが、築地塀の外は、飢餓や天災、疫病やら野盗の横行する大乱の世界なんだって。(…)築地塀がいよいよ壊れて、野盗は入って来るわ、舎人は持ち逃げするわ、荘園から物は届かなくなるわで、やっと世界と同じレベルになったのに、不安もないものだ。今こそ、自分たちは楽しむべきだ、面と向かって世界をよく見ることができるときじゃないか、って」(『虫眼とアニ眼』p106)

 戦争や環境危機の巨大な破局に向かって、ファシズム的に社会や国が狂っていく状況を「どう生きるか」を教えようとする狙いは分かった。では、肝心なその中身はどうか。

 前作『風立ちぬ』を第4回で論じたように、『風立ちぬ』は零戦の設計者の物語でありながら、同時に自分自身の父の物語であった。『君たちはどう生きるか』もまた、主人公の父が宇都宮周辺で零戦の風防を作る工場で経営者的な立場で仕事をしていることからして、自伝的な内容であり、戦時中の自身の家族を描こうとする意図の延長線上にあると推測することが出来る。

 若い人たちに「どう生きるか」を教えようとすることと、自分の両親を描くことが、どうして両立するのか。それは、2006年に『君たちはどう生きるか』について宮﨑が書いた文章を読めば、よく分かる。

「東京に大正十二年に関東大震災があって、そこから世界恐慌を経て、日本中が戦争に向かい、空襲で燃えてしまうまで、わずか二十年そこそこしかない。それほどまでに短期間に異常なスピードで破局へ突き進んでいた大嵐のような時代なのに、そして、この本の著者である吉野源三郎さんは本当に切実に時代の危機感と向き合っているのに、子供の頃にうちの親父に当時の話を聞くと、本当に能天気に『いやあ、面白かったよ』とか『一円あれば~』とか、そういう話しかなかった。/一方で僕が公的に受け取る日本の歴史の中には、思想弾圧や大不況の中を満州事変へ向かう嵐のような狂気がたちこめていて、若い男女であった父と母がそんなふうに能天気に生きてこられたような隙間なんてまったくといっていいほど感じられなかった。そのギャップが大きな疑問として、ずっと僕の中について回っていたんです」(『折り返し点』p463)

 『となりのトトロ』と同じように、「公的な物語」ではネガティヴなものとして理解されるものを、自分の父と母を手掛かりに、別種の角度から光を当て、「どのように生きたのか」を探ろうとする試みとして『風立ちぬ』『君たちはどう生きるか』は理解できるだろう。そこには、死者や失われたものたちと共存する「異界」を実現させようという『草枕』や能的な意図が重なっている。

母の物語、アニミズムとの決別

 『君たちはどう生きるか』が自伝的な作品であると解釈される根拠は、父の仕事や、作中に登場する建物も、宮﨑が実際に過ごした建物とソックリであることなどである。宮﨑はここで4歳の時に空襲に遭う。この戦時の経験が創作の原点にあることを、宮﨑は語っている。

 しかし、自伝「的」とは言え、本作で中心となる「母」は、評伝的な事実とは随分と異なっているようである。まず、宮﨑の母親は、戦争中に亡くなっておらず、1980年代までご存命であった。主人公の年齢も、実際の宮﨑よりは上であるように見える(10代前半?)。『風立ちぬ』での父と同じように、母も色々な変形を蒙っているのである。フィクションなので、様々な都合で事実から変えるのは当然と言えるのだが、「母の死」と、「新しい母との再婚」の受容という物語に関係しそうな、評伝的な背景を、少しばかり紹介する。

 『風立ちぬ』の菜穂子は、戦時中に脊椎カリエスを患っていた宮﨑の母親をモデルにしていると解釈されるのが常である。筆者もそう思うが、しかし、それだけではないのではないか、とも思えてくる伝記的な事実がある。父親が、その前に結婚していた女性がおり、1年そこそこの結婚期間の後に結核で亡くしているのだ。

「戸籍謄本を取って見たら」「親父の隠された半生が全部明らかになったんです(笑)。親父にはおふくろとの結婚の前に最初の奥さんがいたということが、はじめてわかった。しかも学生結婚なんです。聞いてみたら、生きるの死ぬのと大騒ぎして結婚して、一年もたたないうちに相手が結核で亡くなっちゃった」(『腰ぬけ愛国談義』p135-136)

 『風立ちぬ』の菜穂子に近いのは、実母ではなく、亡くなった父の前妻なのである。『君たちはどう生きるか』に、評伝的な事実とは異なる「二人の母」が出て来る背景にはこのような出来事があるのかもしれない。が、その話には深入りせず、もう少し普遍的な「母」の話をしたい。

 ファンタジー作品において、父や母は、文字通りの血縁的な父と母を意味するのではなく、多様な物事の隠喩として機能する。ジャン・シュヴァリエ、アラン・ゲールブラン『世界シンボル大辞典』の「母」の項目を引くと、「大地だけでなく、海の象徴的意味にも結びつくといえる。海も大地もともに、生命の受容器、母胎であるという意味においてである。海と大地は、母の身体のシンボルである」(p794)とある。

 このようなシンボルの機能は、多くの神話や民話に見られるものであり、これまでの宮﨑作品でも多く使われてきた。「自然+人為」を高次の自然として大肯定した極限の『崖の上のポニョ』では、海そのものである多産的な母が「グランマンマーレ」として描かれていた。そのような肯定的な母=アニミズムの描写が『風立ちぬ』では禁欲され、『君たちはどう生きるか』において、「敵」としてネガティヴに描かれることになる。序盤の、池の中から現れる生き物たち、空から襲い来るたくさんの鳥たちのような、アニミズムの多産性の象徴であり、アニメーションの快楽そのものであるかのような意匠が、『君たちはどう生きるか』において、主人公が対決しなければならないネガティヴなものとして描かれているのだ。これは、これまでの宮﨑作品と決定的に違う、新しい一歩を踏み出した点であり、これだけの年齢とキャリアに置いて果敢に自己否定し、自己批判し、新しい未知のフェイズに飛び込んでいく勇気と創造性に感嘆させられる。これを「宮﨑アニミズムV」と呼ぼう。

 なぜこれが生じたのか。端的に言えば、「母=アニミズム」のネガティヴな機能をどうしても意識せざるを得なくなったからではないだろうか。

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