『君は放課後インソムニア』は“本物”の実写映画だ 高純度な“ケ”の構築に宿る作り手の愛
漫画の実写化における“絶対条件”とは何だろう? 人によって多様な意見があるだろうが、こと自分においては「愛情」だと感じている。原作好きにとって、実写版の作り手たちを“同志”と感じられるかどうかーーここが、「推せる」か否かにつながってくるのではないか。
漫画『【推しの子】』の中で、漫画家が自身の作品を2.5次元舞台にする企画の脚本家に対してこう言い放つシーンがある。「別に展開を変えるのはいいんです。でもキャラを変えるのは無礼だと思いませんか?」、さらには「大事なのはキャラの柱なので。そこさえ変わらなければ何やってもOK」というセリフも。全ての原作者に当てはまる言葉ではないだろうが、「リスペクト」というのは何も徹底的に原作準拠を守り通すことではない。ビジュアルだけ強引に寄せたところで、現実世界に顕現させる以上そこのすり合わせを怠れば、痛々しいものになってしまう。
そのままなぞるだけなら既にオリジナルがあるのだから、本当に好きな人たちが誠心誠意心を込めて各々のフィールド(表現)に“変換”したものが観たい、というのは実に理に適った話だ。原作愛を前提とした作り手たちの創意工夫ーー「原作理解度」という言葉で評される二次的創作物に宿る“愛”を測るバロメータ、その値が高い作品は往々にして映画的な強度も兼ね備えており、原作→映画だけでなく、映画→原作のファンの逆輸入も成し遂げてしまう。そうした可能性を強く感じさせたのが、実写版『君は放課後インソムニア』だ。
オジロマコトによる同名漫画(『ビッグコミックスピリッツ』にて連載中)を、黒沢清、三島有紀子、青山真治といった錚々たる監督の作品で脚本を手掛けてきた池田千尋の監督・脚本で映画化した本作。主演を務めたのは、Netflixシリーズ『舞妓さんちのまかないさん』が記憶に新しい森七菜と『MOTHER マザー』『ヴィレッジ』で存在感を放つ奥平大兼。
本作は、石川県七尾市を舞台にした青春グラフィティ。不眠症に悩む丸太(がんた/奥平大兼)は、いまはもう使用されていない天文台で寝ていた伊咲(いさき/森七菜)と遭遇。彼女も同じ状態と知り、二人は急速に仲を深めていく。やがて両者は、自分たちが安らげる場所を守るために天文部を復活させようと考え始めーー。
時代設定は現代、舞台は実在のエリアと現実に根差した物語であり、オジロの絵のタッチも日常風景や心の機微を丹念に写し取っていくものと考えると、ある意味で実写化はしやすい題材のように思えるかもしれない。確かに、クリーチャーが登場したり特殊能力を発動したりするフィクショナルな物語とは異なるが、だからといって「簡単」と思ってしまうのは早計だろう。私たちが暮らす日常に近ければ近いほど、作り手の細部へのこだわり、つまり「愛情」の濃度が浮き彫りになるからだ。
その点本作は、これはいち原作ファンとしての筆者の私見も多分に含むがーー森と奥平が並び立つティザーポスターや特報が解禁された時点で「伊咲と丸太だ!」「君ソムの世界だ!」と興奮してしまう“本物感”が宿っていた。それは完璧なキャスティングもそうだし(先生役の桜井ユキ、先輩役の萩原みのりも思わず膝を打つ配役だ)、陽光の切り取り方や街の映し方、質感や空気感が見事に原作×現実のハイブリッドになっているから。
つまり世界観が、原作と地続きにあるということ。そしてそれは「あの漫画が現実になった!」と錯覚させる歓びを呼び起こす。つまり、真の意味の実写化だ。世に漫画の実写化作品は数あれど、「別物」だとわかっていても原作勢からするとどこかしらにノイズを感じてしまう作品は少なくない(それは往々にして先述した「愛」をうまく感じ取れない/伝わってこないから)。またまた個人的な体験で恐縮だが、『君は放課後インソムニア』において原作、アニメ、実写を見比べて各々の特長に唸らされ「なるほど、これが実写化ならではの楽しさか」と改めて合点がいった次第だ。
本作のスタッフを調べてみると、共同脚本は『凶悪』などの白石和彌監督作や実写版『東京リベンジャーズ』で知られる髙橋泉、撮影は『青くて痛くて脆い』『明日の食卓』の花村也寸志、照明は『ドライブ・マイ・カー』の高井大樹、録音は『ラーゲリより愛を込めて』ほか瀬々敬久作品常連の高田伸也、美術は『ロマンスドール』ほかタナダユキ作品を多数手がけた遠藤善人、スタイリストは『きみの鳥はうたえる』の石原徳子と、なんとも豪華な顔ぶれ。各スタッフの総合力が、この効果を生み出していることは言うまでもない。