『らんまん』は閉じ込められた人々を解放する物語 神木隆之介の“少年性”が説得力を生む

『らんまん』が描く閉じ込められた人々の解放

 『らんまん』(NHK総合)とは、何にもとらわれない主人公・万太郎(神木隆之介)の降臨によって、閉じ込められていた人たちが解放される物語である。第11週「ユウガオ」では、植物学研究室の人たちが、女性たちが、解き放たれていく。その代表は、助教授・徳永(田中哲司)であり、実業家・高藤(伊礼彼方)の妻・弥江(梅舟惟永)である。

 当初、徳永は万太郎に、弥江は寿恵子(浜辺美波)に、それぞれ苦い顔を向けていて、悪役かと思わせたが、そうではなかった。ふたりの苦い顔は、目の上のたんこぶのような権力に押さえつけられていたものだったのだ。

 徳永は、文学(たぶん日本文学)を愛していたが、西洋かぶれの田邊教授(要潤)に四字熟語を使うことを禁じられていた。田邊はワンマンで、研究室では彼のご機嫌を伺わないと残っていけない。誰もが黙って耐えていたが、万太郎の好きなものに真っ直ぐ向かっていく姿に影響されて、自分のほんとうに好きなことや、やりたいことに目を向けるようになっていく。植物学の学会誌を作る学生たちのなんと生き生きしたことか。それぞれの研究テーマについて話す短いやりとりにも、彼らの好きが詰まって聞こえた。

 学会誌を完成させた万太郎は、ようやく自信をもって、おそらく、当時の格式の高い結婚の申し込み方法らしい、仲人(大畑に頼む)を立て釣書を寿恵子の家に届けてもらった。

 寿恵子は、鹿鳴館建設にあたり舞踏練習会の発足式に、ダンスを披露する。これをきっかけに高藤は彼女を正式にパートナーに迎え入れようと画策していたが、寿恵子はきっぱり断る。それを見ていた弥江は、自ら、高藤に引導を渡す。

 「どうぞお好きなだけお仲間と踊ってらしたら?」と言うセリフは、男たちが浅はかな西洋かぶれで、本当の男女平等をまったく理解していないことへの痛烈な批判だった。

 例えば、明治後半を舞台にしたイタリアのオペラ『蝶々夫人』は、日本に来た外国人の妻(本妻ではない現地妻みたいなもの)となったヒロイン・蝶々夫人が、夫が外国に帰ってしまってもずっと待っている悲劇である。

 『らんまん』では長田育恵は、女性が「待つ」必要などないことを書く。寿恵子の母・まつ(牧瀬里穂)は待つことを強いられた妾で、娘にはそういう生き方をさせたくない。だから、万太郎があらかじめ、まつに寿恵子に自分で自分を認められるようになったら迎えに来る(学会誌を完成させる)とけじめをつけたとき(第45話)、その話を寿恵子にはしない。その言葉にすがってしまわないようにと思ったのであろう。

 まつは「良いご縁があればお待ちできませんよ」「娘は貴方様を待たなくても構いませんか」と念を押し、万太郎は間に合わなかったからあきらめると潔く答えた。

 万太郎と寿恵子が「待つ」という約束をかわさずとも、お互いが求めあい、自分のやるべきことを完遂したうえで、会いに行く(あいみょんの主題歌「愛の花」の歌詞のよう)ときの、能動性は実に清々しい。とりわけ、寿恵子が万太郎の住むクサ長屋に自ら訪ねて来て、自ら万太郎の胸に飛び込むところに、この時代の女性の自立が現れていて爽快である。

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