『シン・仮面ライダー』はコアなファン以外も楽しめる作品なのか 原作やテーマから考察

 つまり、庵野監督が新しい要素を『仮面ライダー』に加えているというよりも、逆にこれまでの庵野監督作品が『仮面ライダー』の持っていたさまざまな要素で構成されていたことの方が印象づけられるのだ。その意味で本作は、TVシリーズそのものの創造性の豊かさや魅力を、再び観客に提示するようなものになっている。例えるなら、『仮面ライダー』の熱心なファンが、シリーズの美点を、観客に向かって一つひとつ説明し続けるといった構成なのである。

 本作の宣伝に使われたキャッチコピーである、「変わるモノ。変わらないモノ。そして、変えたくないモノ。」は、そんな古参オタクの心情の表れであり、「あなたを信じてあなたに託す。」という別のコピーもまた、『仮面ライダー』という作品の価値観や表現が現代にも通じるものと信じて、本来持っていた魅力で勝負させたいという意味にとれるのである。

 当時のTVシリーズを観たり、石ノ森章太郎による漫画版を読むと、そこには確かに、現在でも通用する描写は多く、むしろ現在の日本の作品で希薄だといえる“熱さ”や、社会風刺への意識などが色濃く感じられる。だから、『仮面ライダー』本来の魅力を伝えたいという気持ち自体は理解できる。とはいえ、当時の作り手たちが、作中のさまざまな表現を最高のものだと考えているかというと、そうではないだろう。スタッフたちは、大ヒットしていく作品を手がけながらも、限りある時間と予算のなかで、さまざまな妥協をしながら、数多くのエピソードを成立させているはずなのだ。

 『シン・仮面ライダー』は、そういった表現もまたノスタルジックな魅力だと捉えてコピーしようとする局面が多いと感じられた。例えば、本作におけるトンネルでのアクションで、「暗くて何をやっているのか分かりにくい」という批判が浴びせられたシーンが象徴的である。庵野監督はインタビューにおいて、子ども時代にTVシリーズを観ていた視聴環境が悪く、まさしく“暗くて何が起こっているのか分からない”場面があったのだという。そして、そんな鑑賞体験を本作に活かしているというのだ。それは作品の本質というよりも、むしろ不純な夾雑物の方を愛でるといった姿勢ではないのか。これはまさに、『シン・ウルトラマン』にも見られた問題だった。

 重要なのは、観客の多くを楽しませるのか、それとも自分のノスタルジーに浸るのかという判断において、後者を選択しているケースが何度も見られるといった点である。それは、もともとの『仮面ライダー』の作り手たちの姿勢とは、はっきりと異なるものだと指摘することができる。その意味では50年前のTVシリーズこそ、多くの視聴者や子どもたちに向けた“開かれた”作品であり、当時の先端的な表現に溢れた内容だったといえるのである。

 また本作の演出は、その多くがTVシリーズに依っているが、ストーリーの方は、石ノ森章太郎の漫画版を基にしているところが多い。漫画版の展開でとくに興味深いのは、ショッカーの支配計画の内容が、じつは日本政府が始めたものだったというサプライズ展開だった。国民に番号(ナンバー)を振り分けて整理するという政府の方針は、民衆を管理し支配しようとする意図を持ったものだというのだ。そして、そんな陰謀が明らかになった後も、罪を認めず辞任しようとしない総理大臣の醜態が描かれている。

 ここで想起させられるのが、いままさに日本政府が進めている「マイナンバー制度」である。仮にスクリーンで、それがショッカーの陰謀だと描かれれば、実際の政府のねらいがどうであれ、少なくとも観客が面白がったはずなのは確かだろうし、石ノ森章太郎の先見性をリスペクトすることができたはずだ。しかし本作は、漫画版の様々な要素を採用しているにもかかわらず、最もエッヂが立っていて面白い社会風刺部分を切り捨ててしまったのだ。それだけでなく、ショッカーに対抗する団体「アンチショッカー同盟」を、“政府公認”だと設定することで、それに協力する仮面ライダーを、逆に政府の尖兵としてしまっているのである。これは漫画版のファンからすると、首を傾げざるを得ないところなのではないか。

 漫画版では他にも、公害問題や広島の被ばく問題についても扱っている。このような社会問題をテーマにするという点では、本作と近い時期に製作され、現在の様々な問題をストーリーに組み込んだシリーズ『仮面ライダーBLACK SUN』(Prime Video)の方が、むしろオリジナルの試みを本質的に捉えているということになるだろう。

 それでは、本作は何を新たなテーマとして加えたのか。それは、『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズでも描かれた、「自分はどう生きるのか」といった問題である。庵野秀明も過去に参加している、ガイナックス制作の『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)は、このテーマの端緒となると同時に最もその問題を色濃く象徴した作品だった。

 『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のクライマックスで、主人公が存在していた位置は、限りない広さの宇宙と、恋する女性のいる地球との、ちょうど狭間(はざま)の空間であった。それは、当時のガイナックスの若いスタッフたちが共通して持っていた、芸術的欲求と、平凡な幸せを掴み取りたいといった、アンビヴァレントな精神状態を指し示した。それは、多くのクリエイターに当てはまるものだと考えられる。

 庵野監督は『新世紀エヴァンゲリオン』で、そんな積年のテーマをより個人的な課題として引き継ぎ、創作における充実した万能感やオタクとしての欲求の追求と、一方で、仕事やオタク談義を介さないところでのコミュニケーションや、自己管理などがなかなかうまくいかないという足元の問題が、アンバランスに存在するといった状況を物語に反映させている。

 そして、オタクとしての自己を嫌悪する感情と向き合った末に、一歩一歩、ゆっくりでも社会性を身につける努力をしていくという、地に足のついた方向に“幸せ”への道を見出したのだ。それは、近い境遇のクリエイターや、アニメーション作品のファンの一部にも共通する課題への提言であるといえる。ここで仲間同士が狭い領域で傷を舐め合うような耳ざわりの良いことを言うのでなく、常識的な普通の説教を繰り出したというのは、むしろ誠実な態度だといえる。身を切りながら到達した“普通の答え”は、オタクの権化でもある庵野監督自身の叫びだったからこそ、価値があるのである。

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