『シン・仮面ライダー』はコアなファン以外も楽しめる作品なのか 原作やテーマから考察

『シン・仮面ライダー』徹底解説

 『シン・ゴジラ』(2016年)、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)、『シン・ウルトラマン』(2022年)と、庵野秀明監督や親交あるスタッフを中心に、過去の映像作品における名作や自作を解体、再構成することで、新たな映画作品へと蘇らせてきた「シン」シリーズ。そこに新たに加わったのが、『シン・仮面ライダー』だ。

 TVシリーズ『仮面ライダー』は、現在までに無数のシリーズ作品が作られ、ヒーローである仮面ライダーたちの種類も膨大だ。以前私が熱烈なファンの家に伺った際、部屋にほとんどのシリーズのライダーたちのフィギュアが、京都の「三十三間堂」における観音菩薩像のように、びっしりと並んでいるのを見て、気が遠くなったことがある。仮面ライダーは、まさにある種の宗教性を帯びた存在なのかもしれない。

 そんな『仮面ライダー』は、庵野秀明監督の幼少期、決定的といえる原体験を与えた作品でもある。シリーズを通しての必殺技「ライダーキック」同様の描写が、『新世紀エヴァンゲリオン』や『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年)などでも見られるのをはじめとして、庵野作品の表現の特徴を追求するうえで、『仮面ライダー』の初期TVシリーズは切り離すことはできない。

 それほどに思い入れの強い番組を、演出の斬新さや興行的な面でも注目される「シン」シリーズとして、庵野監督が手がけるのだと初めて聞いたときは、興味深いと感じるとともに、庵野作品を知る多くの観客たちと同じように、ある不安がよぎった。それは、思い入れが強すぎるがゆえに、『仮面ライダー』初期シリーズのコアなファンにしか楽しめないような内容になってしまうのではないかということだ。

 実際、そのあたりはどうだったのだろうか。ここでは、作品の内容から着地点が適当だったのかを見ていきながら、『シン・仮面ライダー』が何を描いていたかを、できるだけ深いところまで考えていきたい。

『シン・仮面ライダー』追告

 観客の不安を深めた要因は、庵野秀明が脚本を務めた『シン・ウルトラマン』にあったのではないだろうか。多方面で評価され、多くの観客に支持された『シン・ゴジラ』は、特撮ファンの枠を越えて、国民的な作品といえるような存在にまでなった。これは、現在の日本にゴジラが現れたらどうなるのかというシミュレーションを描いたコンセプチュアルな内容となったこと、東日本大震災を経験した日本の観客の心理や、社会的なテーマに沿っていたという特殊な事情があったという理由もある。

 だが、『シン・ウルトラマン』では、そこまでの強いテーマ性を提示できず、過去のTVシリーズのさまざまな要素を現代的にアレンジするにとどまった、マニアックな方に軸足を置いていると感じられる内容となっていた。なので本作『シン・仮面ライダー』もまた、『シン・ゴジラ』ほどの普遍性を獲得できないのではないかという危惧に繋がったのだ。そしてその危惧は、かなりの部分で現実のものとなってしまったというのが、『シン・仮面ライダー』を観た上での最も強い印象である。

 本作の物語は、悪の組織ショッカーの施設から脱走した主人公・本郷猛(池松壮亮)と、緑川ルリ子(浜辺美波)が一台のバイクに乗り、組織の戦闘員らの激しい追跡から猛スピードで逃走する刺激的なシーンからスタートする。一時は捕獲されそうになるものの、肉体に改造を施されバッタの強靭な能力を宿した本郷は、圧倒的なパワーを発揮して戦闘員たちを撃退する。

 ここでギョッとするのが、本郷の攻撃によって派手に血飛沫が舞うという描写である。さすが、ここは庵野監督の攻めた演出だと思ってしまうが、TVシリーズ第2話において、このように血が飛び散るシーンは、ここまで陰惨ではないものの、すでに表現されているのである。むしろ、庵野監督の過去作における流血表現は、『仮面ライダー』にその源流の一つがあるということが、逆に理解できてしまうのだ。

 他にも、戦闘員がライダーの周りをとり囲む場面で、映像素材のユニークな編集によってシュールな味わいを出していたり、コマ落としのカクカクとした動きでリミテッド・アニメーションのような効果を出しているように、『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズや、実写版『キューティーハニー』(2004年)を想起させられる、「庵野監督らしい」と思えるような部分ですら、その多くが、すでに『仮面ライダー』のTVシリーズで描かれたものを再現し、もしくは誇張され提出されているのである。

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