『大奥』右衛門佐の涙ながらの言葉を忘れない 現代にリンクした“人として生きる”テーマ

 桂昌院の「子をなす」ことに対する綱吉への抑圧は次第に大きくなっていく。子がなせないのは、桂昌院自身が過去にした殺生のせいと、「生類憐みの令」を出すことにもなり、すでに「月のもの」がなくなった綱吉に対しても、それを頭で理解することもできず、さらに神仏にすがり功徳を積まないといけないと考える。そんな父の姿を見ても、怒りを通り越して呆れ憐れむしかない綱吉の表情がせつない。

 綱吉は桂昌院から、学問よりも器量と愛嬌を期待されている。それは「大奥中の男に恋をさせんとあかん」からである。綱吉もまた、それを内面化しており、御褥をする際には、念入りに化粧をしたりもしている。

 そんな彼女の「刷り込み」を振り払うのが、紀州徳川家の2代藩主・徳川光貞(飯島順子)の3女の信(後の吉宗/清水香帆)である。質素な信を見て綱吉は「己の身なりにも、もう少し気を使ってよいのでは。いずれ、夫や側室を持ち、世継ぎを儲けるには美しくないと」とアドバイスをするが、信から「信は美しい男にまったく興味がないのでございます。美しい男に興味がない信がいるということは、美しい女に興味のない男もいるはずにございます。身なりや見かけを気にかけぬ、信はさようなものを選べばすむ話なのではないでしょうか」と言われ、はっとするのである。

 女性が世継ぎを産むためには美しくあるべきという桂昌院にかけられたルッキズムの呪縛に綱吉が気づく瞬間である。

 とはいえ、何10年もかけた呪いが完全に解けるわけではないだろう。綱吉は、忙しかった母の家光にかわり愛情を注いでくれた父親の桂昌院のことを否定することはできない。それに対し、ドラマの中の右衛門佐は、きっぱりと「それは上様が己が望みをかなえるに入用な器であられたからにございましょう桂昌院さまこそ、最も欲得ずくで上様に関わっておられるお人だと私には思えます。そして、この期に及んでも、それを慈しみとすり替え、すがっておられる上様が哀れでなりませぬ」と告げるのである。

 孫を欲しがる親や、「子どもはまだ作らないの?」と気軽に聞いてくる「素朴」な人に対して、綱吉のように、「そこに慈しみがあるから」「後の世に生命をつなげることは人としての使命だから」と考えて、モヤモヤとはしても反論できない人は現代にもいることだろう。

 少子化が叫ばれ、「産む」ことが世の中のためになることとされ、しかも「結婚」や「出産」によって、奨学金の一部が免除されるという私案が発表されたりもしている昨今だからこそ、右衛門佐が涙ながらにこのドラマの中で言う「生きるということは、女と男ということは、ただ女の腹に種をつけ、子孫を残し、家の血を繋いでいくことだけではありますまい」「私は子をなすための褥しか知りませぬ。何の目的もなく、女性とこうしておるのは、生まれて初めてでございます。ここには何もない。ただの男と女として、ここにおるだけです。こうなったのが今のあなたで本当によかった。なんという幸せか」という台詞が、より胸に響くのである。

■放送情報
ドラマ10『大奥』Season2
NHK総合にて、今秋放送開始
原作:よしながふみ『大奥』
脚本:森下佳子
音楽:KOHTA YAMAMOTO
写真提供=NHK
©よしながふみ/白泉社

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