『大奥』右衛門佐の涙ながらの言葉を忘れない 現代にリンクした“人として生きる”テーマ
よしながふみの原作漫画を、森下佳子脚本、NHKのドラマ10で映像化した『大奥』は、江戸時代を舞台に、男子ばかりがかかる架空の疫病・赤面疱瘡により、男女の役割が逆転した徳川幕府を描いたフィクションである。3月14日にシーズン1が終了し、秋からシーズン2の放送が決定している。
シーズン1では、三代将軍・徳川家光(堀田真由)の時代から大奥の記録が記された『没実録』を、八代将軍・徳川吉宗(冨永愛)が読みながら回顧する内容になっていた。
赤面疱瘡が流行して、男子の人口が女子の4分の1まで減った世の中では、女性が労働の担い手となり、男性は希少な「種馬」とみなされていた。徳川幕府では、3000人ともいわれる男性たちの大奥が形成されており、その中で将軍の子供の父親になる男性が「選ばれる」存在となる。
このドラマは家光編にしろ、綱吉編にしろ、女性の将軍たちが、家を血のつながった子孫を産んで継がせるため、つまり家父長制により、望まない生殖を強いられているからこそ、彼女たちを心から愛する大奥の男性たちによって救われる場面が描かれている。そこには、なんらかの「同じ痛み」つまり、シンパシーがある。
綱吉編において、綱吉(仲里依紗)は町民たち(阿佐ヶ谷姉妹が演じている)の噂話のシーンにより「当代一の色狂い」であることが示される。その綱吉の側室候補として右衛門佐(山本耕史)が京から呼び寄せられるが、右衛門佐は自身が35歳を過ぎていて、大奥のルールに反することから、側室になることを辞退し、大奥総取締となる。
右衛門佐には「策略家」的な一面があり、綱吉の父親の桂昌院(竜雷太)には「くせ者」とみなされ、その行動は自身の「成り上がり」のためにあると見られていた。学問にも明るく、そんなところも桂昌院からすると、どこか鼻につくのである。右衛門佐が「人として確かな力を得たい。人として生まれたからには、私は、己にそれができるか、ここに試しに来たのだ」と宣言するシーンがある。このセリフは、右衛門佐の上昇思考を表しているようにも思えるが、それ以外の意味もあって後々効いてくるのだ。
綱吉は学問を好む聡明な女性でもあった。そういうところが、右衛門佐と綱吉が、ビビっと来るところでもあるのが面白い。常に、緊張感のあるやりとりをする2人は、好敵手であり、気になる相手になったのである。2人が「ニヤリ」とするシーンを見ても、似た者同士であることが見えた。綱吉のように、華やかな世界に身を置いていても、本来の自分が発揮できず、どこか退屈な生活を送っているものにとって、右衛門佐のようなくせ者は、退屈を忘れさせ、「相手にとって不足がない」存在になる。
しかし、ドラマを見進めていくうちに、右衛門佐にも苦悩があったことが明らかになる。彼は貧しい公家の出身で、その美貌から「種付けをするためだけに生まれてきたのか」と自問自答していた。そのために「人として」生きることにこだわっていたのだ。
一方、父親の桂昌院から、世継ぎを産むことを過度に期待されている綱吉もまた、「生殖」だけを期待されている人間であり、「人として」生きた心地のしていない人物である。2人は、「人として」生きていないことで、シンパシー、つまり愛情を感じるのである。