アジア人初のアカデミー賞主演女優賞受賞! ミシェル・ヨーの女優としての足跡をたどる

 『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で第95回アカデミー賞主演女優賞を獲得し、アジア人初の同賞受賞者となったミシェル・ヨー。この偉業を成し遂げた彼女は、いまや60歳にしてキャリアの絶頂期を迎えている。香港映画の女性アクションスターとしてスタートした彼女がここまでたどり着くには、いったいどんな道のりがあったのだろうか。その女優としての足跡を振り返っていきたい。

バレリーナの夢をあきらめ、香港映画界へ

 1962年、マレーシアのペラ州イポーで生まれたミシェル・ヨー。父親は有名な弁護士で、まさに後の出演作『クレイジー・リッチ!』(2018年)のような裕福で厳格な家庭に育った。4歳からバレエを習っていた彼女は、バレリーナを夢見て、15歳のときロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスの門をくぐる。しかし17歳のとき、怪我が原因でその夢をあきらめることに。以後は振り付けと演技を学んで同校を卒業した。

 1983年、20歳になったヨーは、母の勧めでミス・マレーシア・コンテストに出場し、見事に優勝。同じ年に旅行で訪れたオーストリアで、ミス・ムンバ/ミス・ツーリズム・インターナショナルにも出場し、ここでも優勝を勝ち取る。そんな彗星のごとく現れた彼女に目をつけたのは、香港映画界だった。

 実業家のディクソン・プーンとサモ・ハン・キンポーらが1984年に設立した映画会社D&B(徳寶電影公司)は、映画以外にCM制作も手掛けていた。あるCMでジャッキー・チェンと共演する女優が見つからず困っていたところ、プーンの知人が彼にヨーを紹介する。彼女はジャッキーとのCM共演で芸能界入りし、D&Bの専属女優に。同年、サモ・ハン・キンポー主演の『デブゴンの快盗紳士録』で映画デビューを飾る。同作ではサモ・ハンとのちょっとしたダンスシーンはあるものの、アクションシーンは一切なかった。後に自らアクションを演じるようになった彼女は、自分の元バレエダンサーというバックグラウンドが、大きなアドバンテージになったと振り返る。体の動きをコントロールする技術が、すでに身についていたからだ。当時の香港映画界は、アクション映画全盛期。CGはもちろんワイヤーもなく、死んでもおかしくないような危険なスタントが満載の作品が人気を集めていた。そんななか自らスタントをしたいと志願した彼女は、かなりの度胸の持ち主と言えるだろう。

『ポリス・ストーリー3』(写真提供=Everett Collection/アフロ)

 そうしてアクションのトレーニングをはじめた彼女は、1985年、『レディ・ハード 香港大捜査線』で主演デビューを飾る。同作は同僚から「マダム」と呼ばれて信頼されているヨー演じるアンナ警部が、スコットランドヤードから派遣されたキャリー・モリス警部(シンシア・ロスロック)とともに、犯罪者たちの詳細が記されたマイクロフィルムを奪還しようと奔走する物語だ。ヨーは同作で、格闘技未経験者とは思えない格闘シーンや危険なスタントを披露している。ド派手なアクションで観客の度肝を抜いた彼女はたちまち大人気となり、その後、真田広之との共演作『皇家戦士』(1986年)や『チャイニーズ・ウォリアーズ』(1987年)で立て続けに主演を務める。その後、1988年に結婚を機に俳優業を一時引退。離婚を経て、『ポリス・ストーリー3』(1992年)で復帰する。同作はジャッキー・チェン演じるチェン・カクー刑事の活躍を描いた人気シリーズ第3弾で、ヨーは彼とともに、犯罪組織への潜入捜査を行う中国人民武装警察部隊のヤンを演じた。同作で彼女は、チェンに負けずとも劣らないクレイジーなアクションに挑戦し、彼を焦らせたという。もっとも印象的なのは、終盤にバイクで走行する貨物列車に飛び移るシーンだ。バイクの免許を持っていなかった彼女は2週間の準備期間経て、このスタントに挑んだ。(※)ジャッキー映画でお決まりのエンドロールのNGシーンで、文字通り体を張ったアクションだったことが見て取れる。

 名実ともに、香港映画を代表するアクションスターになったヨーだが、その一方で文芸映画『宋家の三姉妹』(1997年)にも出演し、演技力の高さも見せつけている。

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