ムロツヨシが“喜劇俳優”のイメージを塗り替える 『雨に消えた向日葵』で見せる真の実力

 WOWOWで放送中の『連続ドラマW 雨に消えた向日葵』は、主演のムロツヨシの存在感にただただ驚かされる作品であった。つい最近も𠮷田恵輔監督の映画『神は見返りを求める』で、従来のイメージを覆すような狂気じみた演技を見せてくれたムロだが、いわゆる“喜劇俳優”として定着した俳優が、正反対の狂気を演じることで生まれるギャップが作品の恐ろしさを引き立たてていくという方法論は決して珍しいことではない。むしろそこには、演じる俳優が“喜劇俳優”であるという前提が往々にして付きまとうものだ。

 だが本作では完全に、ムロツヨシ=喜劇俳優という前提が吹き飛ばされる。もし仮に、この作品でムロという俳優を初めて知る人がいるのだとしたら、到底彼が喜劇を得意としてきた俳優であるとは気付きはしないだろう。ゆったりとした口調でじわじわと迫力をにじませていくと思えば、突発的に感情を爆発させてすぐに何事もなかったかのように立ち返る。そして真に穏やかな様子に落ち着けば、見る側に安心感を与えながらもそこはかとない不安感を抱かせる。表情の寄りが映れば、その迫力と不安感の正体がわかる。目の奥の光が完全に消えているのだ。安易な言葉を用いれば“新境地”などと形容したくなるところだが、これはムロという俳優がずっと隠し持っていた技量がようやく作品に表出された瞬間に他ならないのではないだろうか。

 この『連続ドラマW 雨に消えた向日葵』は、埼玉県坂戸市を舞台に、ある夏の雨の日に田舎道を歩いていた小学5年生の少女・石岡葵(大島美優)が行方不明となるところから始まる。事件の捜査にあたる県警捜査一課の奈良をはじめとした警官たちは、次々と捜査線上に浮かび上がる怪しい人物たちに聴取を行いながら、何の糸口もつかめない事件の真相を追いかけていく。一方で葵の両親は、葵の失踪当時に離婚調停中だったことなどからいわれのない誹謗中傷の的となり、それに耐えながらも娘を待ち続ける。ひとつの失踪事件をめぐるふたつの側面を描きながら、そこへ奈良の妹・真由子(平岩紙)の物語も交差していくのだ。

 ここ最近、『真犯人フラグ』(日本テレビ系)や『マイファミリー』(TBS系)など、「失踪」や「誘拐」を題材にした作品が目立ってきたように思える(奇しくも『マイファミリー』で最初に誘拐される主人公の娘役を演じていた大島美優が、本作でも行方不明となる少女・葵を演じている)。たとえば昭和の時代には社会全体を巻き込むような身代金目的の営利誘拐が実際にたびたび発生し、それが映画やドラマの題材になることも多かったわけだが、『マイファミリー』の劇中でも触れられたように近年では営利誘拐が成功すること自体が少ないと言われている。そう考えると、「誘拐」というもの自体がもはやフィクションの犯罪になりつつあるようにも思えてしまうが決してそうではない。警察庁が発表した「令和2年の刑法犯に関する統計資料」(※)を参照すれば、略取誘拐の認知件数はこの10年で倍増しているのである。

 被害者の年齢別で見れば、未就学児童の被害者数は10年前からほぼ横ばいに推移しているが、中高生の被害者数は年々増加の一途をたどっている。その背景に、SNS上で悪意の呼びかけに応じてしまい事件に巻き込まれるというケースがあるということは、あえて説明する必要もないだろう。昨今では街中の至るところに監視カメラがあり、そこら中を走り回っている乗用車の類にはこぞってドライブレコーダーが備え付けられ、それらが事件解決や被疑者の特定に大きな役割を担っており、検挙率も高い。

 それでもなぜ増加しているのか。犯罪は概ね私利私欲の暴走によってもたらされるものではあるが、そこに誤った正義感といった認知の歪みなども加わり、より混沌としてきただけでなく、事件を取り巻く社会環境も大きく変容し、一概に結論を見出すことはできまい。そしてまた、子どもから大人まで年間8万人が失踪しており、その5分の1が10代以下という統計もある。家出か、はたまた認知されない事件なのか。どちらにしてもその背景にはそれぞれ一口で語りきれない何かがある。だからこそ、物語として描くことの意義が生じる。誘拐・失踪というミステリーのひとつの小ジャンルは、もはや単なる娯楽の部類ではなく社会派ドラマとしての一面を携えているのである。

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