『エルヴィス』バズ・ラーマン劇場と化したプレスリー伝 トム・ハンクスの必見の怪演も
エルヴィス・プレスリーにとって歌とは「赤い靴」だ。アンデルセン童話で貧しい少女が履く赤い靴は、貴族令嬢がサイズ違いで売れ残った「世界中探してもこれほど素晴らしいものはない」ほどの美しいエナメル靴である。ところが赤い靴は履いたら最後、死ぬまで踊り続けなければならない呪いでもある。貧困白人家庭の少年エルヴィスは黒人居住区のなかのプアーホワイト用住宅でつつましく暮らす。この地区で歌われる歌、弾かれるギターの音がエルヴィスの赤い靴。
エルヴィスの友だちは黒人ばかり。子どもたちはジュークジョイント(黒人が経営するライブハウス兼ギャンブル場)を壁のすき間から覗き込み、デルタブルースの伝説的シンガー兼ギタリスト、アーサー・ “ビッグ・ボーイ”・クルーダップの奏法に聴き惚れ、さらに別の方角から聞こえてきた黒人霊歌にも惹きつけられ、こんどはそっちに向かって走り出す。いわゆるゴスペルテントでは、マヘリア・ジャクソンの霊歌が礼拝客を高揚の渦に飲み込んでいる最中であり、テントに白一点まぎれ込んだエルヴィスは白目を剥いて忘我の境地に達する。黒人の友だちが心配してエルヴィスを外に運び出そうとするが、牧師が制止する。「やめろ。彼にいま聖霊が降りてきているところだ」
子どもたちがジュークジョイントからゴスペルテントに向かう俯瞰ショットがワンカット挿入される。2地点のあいだには(日本の尾瀬高原で見られるような)木道がややジグザグな形でしつらえられ、少年たちはあたかもそれが天によって決められたコースかのように木道を伝っていく。なんと単純な、しかし美しいショットだろう。と同時になんとむちゃくちゃなショットだろうか。いくら幼き日のエルヴィスがクルーダップとマヘリアに影響を受け、黒人音楽の粋を腹一杯に吸い込んで育ったことがのちの音楽革命を起こす要因となったのはまちがいないとはいえ、2カ所の伝説的磁場を50メートルも離れていない配置とし、ワンカットのなかにすっぽりと収めてしまう映画作家の図々しさというものも取り沙汰しないわけにはいかない。
この図々しい映画作家はバズ・ラーマンという。正直言って、まだ評価の定まらぬ映画作家なのではないかと思う。「そんなことはない。バズ・ラーマンこそ現代最高の映画作家だ」などと凄む人もごくたまに見かけるが、それはやや早計という気がする。オーストラリア・シドニー出身の彼は29歳の時に地元で撮った『ダンシング・ヒーロー』(1992年)で監督デビューを果たし、『タイタニック』でブレイクする直前のレオナルド・ディカプリオを起用した『ロミオ+ジュリエット』(1996年)、ニコール・キッドマン&ユアン・マクレガー主演『ムーラン・ルージュ』(2001年)、再びキッドマンと組んだ『オーストラリア』(2008年)、再びディカプリオを迎えた『華麗なるギャツビー』(2013年)、Netflixドラマシリーズ『ゲットダウン』(2016〜17年)といった具合に、10年に2本という遅々としたペースながらヒットメイカーとしての地歩を固めている。
演劇/オペラ/映画の各ジャンルを横断して活躍する彼の作風は、派手で絢爛豪華、装飾的、テンポはスピーディ。衣裳はプラダ、ティファニー、ミュウミュウ。「MTV的演出」などと揶揄されたこともある。映画界において「MTV的」という形容は当時、いや現在においてもたいがい悪い意味で使われることが多い。私事となるが筆者自身、『ロミオ+ジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』の公開当時、その油ぎった映像と音の洪水に辟易とした記憶がある。「なんだこれは。ワンカットの秒数が1秒にも満たないじゃないか」。豪華なセットもなにやら故意にハリボテに見えるようにしているようだ。人を喰った下品な浪費主義は、現代映画の病んだ姿だとさえ筆者の目に映った。
ところが『華麗なるギャツビー』で筆者は見方を修正した。「いくどとなく映画化されてきたフィッツジェラルド原作を、なんでわざわざ3Dにしなくちゃいけないんだ?」とブツブツ文句を垂れながら劇場に来た筆者は、その日以来、バズ・ラーマン映画が病みつきとなった。もちろんその病みつき具合は、ゴスペルテントで聖霊に憑依されたエルヴィス少年ほどではなく、じつはいまだに疑いの目を消したわけではないのだが。とにかくこの油ぎった世界を味わうには、ちょっとしたコツといったら偉そうだけれども、ファスナーの脇に秘密のスイッチがある。それまで指輪にもネックレスにも興味を持っていなかった人が、突如として宝飾品の魅力に目覚めてしまう。宝飾品なんてなくても人は生きていけるが、いったん目覚めてしまうとそうはいかなくなる。バズ・ラーマン映画とはそういうものだ。
だから、 “ビッグ・ボーイ”クルーダップが演奏する掘っ建て小屋と、マヘリア・ジャクソンが歌うゴスペルテントが目と鼻の先だからといって、その程度のご都合主義にいちいち目くじらを立ててはいけない。エルヴィスの音楽活動、あるいは当時のアメリカ音楽状況についてはここで論じることはしない。「ブルース&ソウル・レコーズ」誌の第166号をはじめとした音楽メディアで映画『エルヴィス』の音楽的側面が詳述されているので、それらをご参照いただきたい。ひとつだけ言わせていただくなら、メンフィスの黒人街ビール・ストリートの街頭やテーラーショップ、ライブハウスがいきいきと、幸福感に満ちて丁重に描かれており、エルヴィス・プレスリーの、そして映画作家バズ・ラーマンの黒人社会、黒人文化に対する尽くしえぬリスペクト、憧憬が強調されている。
そして黒人社会を抑圧する人種隔離法(ジム・クロウ法)に対する闘争が通り一遍ではない形で言及され、エルヴィスの黒人唱法とセクシーなステップを闘争の象徴として強調している。この点は『エルヴィス』という映画が単なる伝記映画としてではなく、BLM運動につながる現代映画として見られるべきであることを示す。白人至上主義者として名高いジェームズ・イーストランド上院議員の醜い扇動演説と、エルヴィスのチャリティライブを、先ほどのジュークジョイント/ゴスペルテントの歪曲した距離感と同様の手法で、乱暴に背中合わせにしてしまう。この乱暴さこそバズ・ラーマンである。