イマジネーションが炸裂した『犬王』に覚えた“ある違和感” 作品の魅力と問題点を考える

 いまや日本を代表するアニメーション作家の一人である湯浅政明が監督を務める、サイエンスSARU製作の劇場アニメーション『犬王』。TVドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)、『獣になれない私たち』(日本テレビ系)などを手がけた野木亜紀子の脚本、さらに、TVアニメ『ピンポン THE ANIMATION』でも湯浅監督とつながりのある松本大洋がキャラクター原案を担当した、意欲的な一作である。

 原作となった小説、古川日出男著『平家物語 犬王の巻』は、あの観阿弥・世阿弥と並ぶ人気を誇ったという実在の能楽師「犬王」を題材に、日本の南北朝時代を舞台とする幻想的な内容。湯浅監督はそこに、ロックやポップス、バレエなど、映画『ジャズ大名』(1986年)を彷彿とさせるミスマッチな要素をあえて加えることによって、ユニークな「時代劇ロックオペラ」に、本作を仕上げている。

 このように自由な発想が反映された果敢な挑戦は、湯浅監督だからこそ可能となったといえるだろう。そんな圧倒的なイマジネーションが炸裂する一方で、本作には、“ある違和感”を覚える部分もある。ここでは、作品の魅力と同時に、散見される問題点についても考えていきたい。

 『犬王』の物語は、“ある呪い”を受けた“異貌”の能楽師“犬王(いぬおう)”と、平家の呪いを浴びて視覚を失った友魚(ともな)という、困難を経験している少年二人が出会い、ともに芸能で名を高めていく姿が描かれる。犬王と友魚は、歌や踊りで観衆に物語を伝える、日本古来のミュージカル「猿楽」で、平家物語の異聞を伝えていく。若い情熱にまかせた斬新な演出は、現在でいう、“ロックスター”、“ポップスター”に近いものとして、本作では映し出されていく。

 ロックバンド「女王蜂」のアヴちゃん、俳優の森山未來が演じる、犬王と友魚のパフォーマンスは、前述したように当時としてはあり得ない現代的な要素が加わったものとして表現されている。そんな時代を超える楽曲を作っているのは、意欲的に様々なジャンルを横断してきた音楽家の大友良英だ。このパフォーマンスや音楽が媒介することで可能となった本作の意外な演出は、当時を生きた人々の興奮やグルーヴ感を、いまの観客に“肌感覚”で伝えるために工夫された試みだと考えられる。それは、数百年前の時代と現代に生きる人々の間を埋め、人間と娯楽の関係をより本質的に問い直すことにもつながるはずである。

 しかも、大掛かりな舞台装置や、観客とのコールアンドレスポンスなど、ライブやミュージカルの特性を、アニメーションのなかで再現しようとしているところは、アニメーション映画そのものを、ある種の批評性をもって捉え、画一化な表現に抗ってきた湯浅監督の真骨頂といえるところで、非常にスリリングだ。つまり湯浅監督は、高畑勲監督がそうだったように、現代のアニメーションのトレンドや近年の潮流のなかで仕事をするのではなく、もっと壮大なスケールで、映画やアニメと呼ばれるものが発明されるずっと以前の価値観と、根源的なものをいま共有しようとしているのだ。本作の企画を引き受けるかたちとなった湯浅監督は、そんな偶然の要素も引き受けながら、高畑監督に近い領域でアニメーション表現を考えようとしていたことが分かるのだ。

 ここで、“ポップスター”や“ロックスター”として描かれている犬王や友魚は、エルヴィス・プレスリーやジミ・ヘンドリックス、デヴィッド・ボウイ、マイケル・ジャクソンなど、現在に近い時代のカリスマ的なアイコンを参考に、そのパフォーマンスが表現されている。

 これが本作の個性的な部分であることは間違いない。だが同時に、それが本作の没個性的部分だともいえるのではないか。たとえばマイケル・ジャクソンのダンスを参考にした部分では、ほぼパロディといえるほど、パフォーマンスの動きがそのまま再現されているように見える。引用されている箇所が、すぐにそれと分かるくらいに“ベタ”なのだ。本作の最大の見せ場が犬王たちのパフォーマンス部分であることを考えると、それがパロディに近いものであることが残念なのである。

 もちろん、ジミ・ヘンドリックスのギタープレイやマイケル・ジャクソンのダンスは、後進の様々なアーティストに真似されてきたし、マイケルのダンス自体もミュージカルの振付師ボブ・フォッシーから大きな影響を受けていることが分かっている。そうやってクールな動きを真似し合いながら連綿と続いていくのが、エンターテインメントの本質の一つでもあるはずだ。そう考えれば、本作の模倣も理解できないことはない。

 とはいえ、模倣をしながらも新たな意匠を加えて次に繋げるというのが、エンターテインメントの流れに加わる条件ではないだろうか。本作は、時代劇に現代的な動きが飛び出してくるという意味では画期的ではあるが、内容自体のオリジナリティに希薄な部分があるのである。大友良英の音楽が、古来の器楽と現代の音楽を融合させたものである以上、アニメーションによるパフォーマンス部分でも、二つの時代をより融合させた、オリジナルといえる表現が見られることを望んでしまうのは自然な欲求なのではないか。

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