『崖の上のポニョ』の物語のゆくえ 「大人も子どもも楽しめる」の本当の意味は?
5月6日、日本テレビ系『金曜ロードショー』にて『崖の上のポニョ』(2008年、宮崎駿原作・脚本・監督、スタジオジブリ製作)がノーカット版で放送される。『崖の上のポニョ』の舞台は海辺の小さな町。小さなさかなの子どもが、クラゲに乗って海を漂い、5歳の男の子・宗介のもとにたどり着く。宗介はさかなの子に「ポニョ」と名づけ可愛がるが、ポニョは父親のフジモトによって海に連れ戻されてしまう。人間になってもう一度宗介のもとへ行きたいと願うポニョは、いもうとたちの力を借り、海の魔力を総動員して、荒れ狂う波の上を疾走する。
公開当時は社会現象にもなった本作。主題歌「崖の上のポニョ」が大流行し、愛くるしい姿をしたポニョの「ポニョ、宗介、好きー!」など、多くの名台詞は繰り返し言及されてきた。
2022年、公開から14年の月日が経った本作を今改めて観たとき、私たち観客は、自分の眼差しにあらゆる角度がついていることに気付かされるだろう。海の生き物だったポニョが、「崖の上」にあがろう、人間の世界に足を踏み入れようとするときに発生する嵐、大荒れする海の描写を見て、東日本大震災の津波を連想しない者はもはやいないのではないか。これが震災の3年前に製作されたというのは大変驚きだが、逆にここまで恐ろしい高波を震災以後に描写する方が躊躇われるのかも知れない。海の怒りが、デフォルメされた水に宿り、圧倒的な脅威と化す。宮崎駿のアニミズムと、ジブリアニメーションの自然物質描写への執着が生んだこのシーンは、精神的なショックを引き起こしかねないため注意が必要だ。それほどまでに恐ろしい。
この作品における液体の物質性に注目してみると、さまざまな効果を発揮していることがわかる。ポニョの世界で操られる水は、濃淡や圧力といったリアリティーに基づく描写もさることながら、固体の如く筒型になったり、粘度をも帯びているかのような動きをしたりと演出の効いたデフォルメも抜かりない。これによってポニョの世界での、水に宿る命、というより、ポニョのいもうとたちが姿を変えているという意味での、命そのものとしての水がいきいきと描かれている。
そしてポニョの水において最も特筆すべき物質性とは、まさしく表面張力である。上述の嵐のシーンにおける水はもちろんのこと、物語に登場するはちみつ入りのホットミルクや、船の上で女性に手渡すお茶など、ポニョ名物とも言える飲み物たちの、とっぷりと盛り上がった液面にも顕著だろう。さらに、宗介の涙の表面張力も見逃してはならない。父親が航海に出ており家に不在であるため母親のリサとふたりで暮らしている宗介は、5歳でありながら、一切駄々をこねることなく、「忙しいから後でね」とさらりと相手の要求を受け流してしまうような、どこか落ち着いて大人びた印象を与える。そんな宗介が唯一ボロボロと涙をこぼすシーンがあるのだが、そのまるまるとした大粒は、堰を切ったように溢れる孤独そのものであり、『風立ちぬ』の堀越二郎が電報を受け取って駆け出すシーンの涙と全く同じ類の切なさを与える。
海辺の町でふたりの子どもが繰り広げる冒険物語というプロットからふと、ふたりを取り巻く大人たちの物語の方に目を向けると、この作品が「大人も子どもも楽しめる」ということの本当の意味がわかる。特筆すべきは、一見端役にも思えるあの人物だ。