『ドライブ・マイ・カー』家福のメソッドを紐解く 変革していく演劇という行為

 映画は女の呪術的なモノローグから始まる。音(霧島れいか)はセックスの度に憑かれたように物語り、それを夫の家福(西島秀俊)は翌朝、彼女に口伝てする。無意識から引きずり上げられた物語を書き起こすことによって、音は脚本家としてのキャリアを築いてきた。特異な関係性を持つ夫婦だが、そんな2人の間にも冷ややかな溝がある。かつて幼い娘を亡くして以後、舞台演出家兼俳優である家福はその哀しみから目を逸らすように仕事に打ち込み、音は夫以外の男と関係を持ってきた。家福は他の男に妻が抱かれるさまを目撃するが、それを胸の内にしまい込む。

 そんなある日、音が急死する。直前に言い遺していた「話したいことがある」。不貞の告白だろうか? それとも別離を告げる言葉だろうか? 何もわからない空虚さだけが残り、年月が過ぎた。

 濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』は行き先のわからないドライブのような映画だ。特段、物珍しい風景があるワケでもないのに、僕たちの心はいっときも離れることがなく、脈々と流れるようなストーリーテリングが知性と好奇心を刺激する。ブロックバスター映画の長尺化がトレンドとなり、何か事件を起こし続けなければ映画が成立しないと思い込んでいるハリウッドの映画製作者たちは驚くだろう。映画は音が亡くなってようやくオープニングクレジットを始め、ここでおおよそ1時間が経過している。

 家福は広島の劇場が主催する『ワーニャ伯父さん』上演のワークショップに演出家として招かれる。多言語(手話を使う者もいる)のキャストが自身の母国語で演じるこの試みを、濱口は多くの時間をかけて描いていく。オーディションで選ばれた役者達の中には、かつて音から紹介された二枚目俳優、高槻(岡田将生)の姿もあった。あの時、音を抱いていた生白い背中の男は彼だろうか?

 家福の演出は“素読み”と呼ばれる台本の読み込みに膨大な時間をかけている。台詞をゆっくりと読み、感情を排し、相手の言葉に耳を傾けて、テキストの音声的美しさと意味を明らかにする工程だ。とかく演出の手が入らない役者は演技過多になり、戯曲の本質を見失いがちである。耳の良い演出家ならさらに音程までコントロールし、素読みの段階であらゆるノイズを排除していく。セリフを繰り返し発することによって戯曲は俳優の血肉となり、そうして“板に立てる”ようになる。このメソッドは演じたいと意気盛んな若手役者にはなかなか理解されにくく、高槻もまたこの家福のメソッドの理解に苦しむ。

 だが演劇は排除しない。老若男女を問わず、誰がやってもいい。劇中の演劇制作が興行ではなく、誰もが参加できるワークショップとなっている点も重要だ。テキストとメソッドの前に身を投げ出せば、異なる者同士が共存することができる。家福は高槻が音の不貞の相手だと疑いつつも彼を配役し、競い合うように喪失感を語る高槻もまた家福の演出に食らい付いていく。高槻を演じる岡田将生のセリフ回しに注目してほしい。まったくもって調子外れだった高槻のセリフが、かつて音が腹上で口にしたであろう物語を口づてし始めた時、家福のメソッドに近づいていくのだ。

 分断とキャンセルを経て、共存を模索するアメリカ映画界において、『ドライブ・マイ・カー』がこれだけ高く支持されているのは当然のことだろう。ここではチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を通じて、言葉も人種も異なる者たちが共存している。ソーニャ役をろう者の女優が演じていることも今日的だ。近年、ハリウッドでは『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』から『エターナルズ』『CODA あいのうた』とメインストリームに多くのろう者が登場している。

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