厳しい現実や作品制作の苦悩をありのまま表現 『ブルーピリオド』が問う“芸術とは何か”

 講談社『アフタヌーン』で連載中の漫画を原作としたTVアニメ『ブルーピリオド』が、現在放送されている。ある男子高校生が美術の魅力に目覚め、国内最難関の美術大学、東京藝術大学の合格を目指して奮闘する日々を描いたシリーズだ。

 驚かされるのは本作の内容が、現実の美大生や受験者のナマの感覚をそのまま描き出しているということ。筆者は私立の美術大学を卒業しているが、異なる美大出身の友人と、この作品のことを語り合って異様に盛り上がった。楽しさや“イタさ”なども含めた学生時代の感覚が、あまりにリアルに甦ってくるのである。

 さらに注目したいのは、本シリーズが“芸術とは何か”という重要な問題を、かなり深いところまで考えさせるものになっている点だ。芸術分野に進む若者たちの青春を描いた作品は少なくないが、本シリーズはその中で、最も真摯なものの一つに数えられるのではないだろうか。ここでは現在の放送分までの内容を振り返り、その理由を解説しながら、“優れた芸術とは何なのか”という真実にまでたどり着く考察をしたいと思う。

 本シリーズの主人公は、男子高校生の矢口八虎(やぐち・やとら)。有名大学にも楽勝で合格できるくらいに成績は優秀、素直な性格で、ちょっと不良っぽいが仲のいい友人たちにも恵まれ、とくに問題のない学生生活を送っている。だが、運動部で全国大会などを目指すわけではない矢口は、たまに友人たちと渋谷で騒いでウサを晴らす日々に、何か物足りないものを感じていた。

 多感な高校時代……魔物に魅入られる、危険な季節である。矢口は美術の授業で、友達と徹夜で遊んだ夜明けの渋谷で見た、ビル群が青い光に染められた光景を、記憶の中の色で描く。その絵で何を描こうとしたのかが、ヴィジュアルを通して友人たちに伝わったとき、思わず矢口の頬には涙が伝っていた。そして、「その時生まれて初めて、ちゃんと人と会話できた気がした」という、彼の心の中が視聴者に明かされる。

 ここで矢口に起こったのは、“自己表現”の喜びとの出会いである。絵や彫刻など美術作品をつくる者の多くは、自分の頭の中の世界を表現し、それが誰かの心に届いたり、プロや絵の上手い人に褒められたときに、天まで登るような快感や感動を得る場合がある。それがただの成功体験と異なるのは、承認されている対象が、技術や結果のみならず、“自分の内面”そのものでもあるからだ。この喜びを再び味わうため、表現活動を続けている者も少なくない。

 早朝の渋谷の風景に感動した矢口と、同じような経験をしている者は少なくないはずだ。筆者は大学時代、友人と朝方まで芸術論や表現の問題を延々と語るのが常だった。その儀式は、たいてい倦怠やケンカで終わることが多かったが、始発の列車が動き出す駅への道は、太陽の僅かな光が美しく街を照らす瞬間(マジックアワー)を楽しむことができるひとときでもあった。「この雰囲気を、絵や映像で表現できないかな」とは、ある朝の友人の言である。

 この矢口のエピソードは、典型的といえるほどに“美大生っぽい青さ”があり、自己表現の衝動の芽の表出としても、適切な例だ。おそらくは原作者の山口つばさも、同様の体験があるのだろう。だから、このような時間を過ごしたことのある者は、矢口の感動がそのまま理解できるはずだし、美術の道に進む人間をあまり理解できない視聴者には、そこに至るまでの心の動きを端的に説明するものとなっているといえる。

 「ブルー・ピリオド」という言葉は、誰もが知る偉大な芸術家パブロ・ピカソが、まだ無名であった若い頃、陰鬱なブルーの色調で絵画を制作していた「青の時代」を意味している。原作では、その言葉を芸術の道に目覚めた一人の学生の、絵画に打ち込む「青春時代」として転用しているのだ。

 本シリーズでも言及されるように、実家が裕福なわけでもない学生の美大への進学は、多大なリスクを背負い込むことになる選択である。とくに矢口は親の経済状態から、公立の難関である東京藝術大学への受験しか許されない状況にある。だからこそ、泣く親を自分も泣きながら説得するという、美大に進もうとする多くの学生にとって“あるある”な試練も乗り越えなくてはならない。さらに、矢口が本格的に絵を描き始めたのは、高校2年の6月頃であり、実技試験のある東京藝術大学の油画科を受けるという挑戦は、かなり無謀なものといえるだろう。

 アーティストや作家になる以外に、デザインの分野や研究職、言論分野にまで視野を広げれば、美大出身者の進路はそれほど狭いものではない。だが、それでも日本の社会における文化の程度ではまだまだ、コストがかかる割に芸術の専門性が高く評価されるような土壌が用意されてないのは確かなことである。他の大学ならば選び放題の矢口が、わざわざ美大を受験して将来を不安定なものにするのは、とてもじゃないが合理的な選択といえないのだ。ではなぜ、美大を受験する者たちは理性の声に反することができるのか。それは、美術への愛情とともに、“努力を続ければ自分の才能が花開くはずだ”という“根拠なき自信”があるからである。

 矢口は、美術予備校で卓越したデッサン技術を持つ高橋に出会い、自身のことを“ただの人”と自覚することになる。しかし、その一方で「天才と見分けがつかなくなるまでやればいい」と、努力によって“天才”の領域によじ登っていくことを決意するのだ。凡人が天才を目指す……これもまた、考えてみれば無謀なことだ。しかし面白いもので、美大にやってくる生徒というのは大概、自分のことをきわめて才能豊かだと認識しているものだ。少なくとも、“最終的には天才になって世の中に認められているはず”という、矢口と同じメンタリティの者が少なくない。

 だが、じつはこのナルシスティックにも感じられる、根拠のない自信が持てるというのは、芸術分野を志す者には必要不可欠な資質でもある。なぜなら、傑出した感覚や技術、発想力などを持っていない者の作品など、誰も欲しがらないからである。だからこそ学生たちは、自分に“才能”があることを信じきって、それを前提に行動しなければならないのだ。美術予備校の指導など役に立たないと考え、現役の藝大生の作品を鼻で笑う高橋のような存在は、日本の年功序列的な社会では不遜で異端的だと感じられるが、芸術分野においては全く珍しくない人物だといえる。

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